小田氏治

 連戦連敗のデータから「戦国最弱」と呼ばれる武将・小田氏治。あまり有能ではないイメージが定着しつつある。だが、本当に弱い武将が何度も大きな合戦にチャレンジできるのだろうか。本連載では有名な戦績データがどこまで事実であるかを確かめながら「小田氏治」の実像に迫りなおす。

 今回は、上杉謙信急死と御館の乱が関東情勢、そして氏治に与えた影響について。

 鬼怒川を挟み対峙した北条氏政と佐竹義重率いる東方之衆──。

 決戦寸前まで緊張が高まった小川台合戦は、謙信急死の余波を受けて、あっけなく幕を閉じる。その影響で、小田氏治にさらなる不運をもらたすことになった。またしても本城を奪われてしまうのである。

著者・乃至政彦
歴史家。著書に『戦国大変 決断を迫られた武将たち』『謙信越山』(SYNCHRONOUS BOOKS)、『上杉謙信の夢と野望』(KKベストセラーズ)、『平将門と天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)など。書籍監修や講演活動なども行なっている。1974年生まれ。高松市出身、相模原市在住。
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小川台合戦の前景

 相模の北条氏政は、天正2年(1574)に北関東の要衝・下総関宿城を制圧した後、下野国祇園城の小山秀綱を常陸へ駆逐するなど、その勢力を着実に伸ばしていた。

 上杉謙信が死去した頃、これに危機感を募らせていた佐竹義重ら北関東の諸大名は勢力を結集して、反北条連合「東方之衆」としての動きを活性化させていた。

 佐竹義重を盟主とする東上野・下野・常陸・北下総の領主連合は、まず近辺の北条派を排除する必要があった。

 天正6年(1578)4月下旬、下野の宇都宮広綱が北条方の壬生城を攻めているのを聞いた佐竹義重は、これを支援するため、大軍を率いて出馬する。

 壬生城主の壬生義雄は北条氏政に救援を要請。

 北条氏政・氏照は壬生城救援のため、会津の蘆名止々斎と連携して、軍勢を発する。

 ここで一旦軍勢を引き上げた義重は、5月6日宇都宮に移動。未曾有の大決戦が迫ろうとしていた。

鬼怒川の対陣

小川台合戦の舞台となった現在の栃木県を流れる鬼怒川/PIXTA

 ここから、北条氏政と東方之衆による小川台合戦への流れが展開されていく。...