連戦連敗のデータから「戦国最弱」と呼ばれる武将・小田氏治。あまり有能ではないイメージが定着しつつある。だが、本当に弱い武将が何度も大きな合戦にチャレンジできるのだろうか。「歴史ノ部屋」で配信する本連載では有名な戦績データがどこまで事実であるかを確かめながら「小田氏治」の実像に迫りなおす。
通説では小田天庵は、藤沢城に逼塞したあと、小田城に二度と戻れなかったとされるが、史料上には一度だけ小田城に復帰した形跡がある。今回は、天庵がいかにして最後の小田城帰還を果たし、そして再び失ったのかを探求する。
史料の断片から浮かび上がるのは、人質を差し置いてでも城に執着した天庵の執念と、三者の黒歴史だった。
歴史家。著書に『戦国大変 決断を迫られた武将たち』『謙信越山』(SYNCHRONOUS BOOKS)、『上杉謙信の夢と野望』(KKベストセラーズ)、『平将門と天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)など。書籍監修や講演活動なども行なっている。1974年生まれ。高松市出身、相模原市在住。
佐竹義重vs.梶原政景
天正12年(1584)6月13日、佐竹義重に従属していた小田城の梶原政景が義重から離反して、北条氏政・氏直に転属することになった。離反の理由は定かではないものの、政景は北条の援軍を期待した。
だが、『小田原記』によると、政景が期待していた北条軍は現れなかった。政景は信頼できないので、助ける義理はないとする意見があったという。
北条から見限られていることを知らない政景は、佐竹の境目を放火していたが、やがて佐竹の逆襲を受けて籠城を余儀なくされることになった。
実際に離反から3ヶ月目の天正12年(1584)9月、佐竹義重は政景の小田城を攻撃している。
後悔しても始まらない。
梶原政景は、この時より「三年マテ佐竹ト合戦シケル」ことになったという。
小田天庵の動き
梶原政景が佐竹義重と争っている間、天庵はどうしていただろうか。
天正13年(1585)9月2日、小田天庵は、藤沢城起工式を行った。翌年(1586)正月24日、天庵はその藤沢城に移転した(『四吉備雑書』『大蔵卿筆記』)。
通説では、その後、ずっと藤沢城主であったようにされている。
だが、ここで前回見てもらった『烟田旧記』の一文と、それに続く一文をご覧願いたい。
「天正十一[癸未]二月廿三日丙寅 火用(=小田ヵ)氏治様御さうし様佐竹へ御越候、御としハ五ツニ被成候、天正十五[丁亥]正月 小田御帰城被成候」という記述がある。...
