常陸の不死鳥と呼ばれる戦国大名・小田氏治の実像に迫る連載「戦国の不死鳥・小田氏治」。今回は小田城失陥前後の関東情勢について。

 弘治2年、小田氏治が小田城を奪われ、奪還した激動の関東。ほぼ一人勝ちの北条氏康を中心に、諸勢力の駆け引きと裏切りが交錯していた。今回は諸将の動向と、これから起きる重大事件の予兆に触れる。

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乃至政彦
歴史家。著書に『戦国大変 決断を迫られた武将たち』『謙信越山』(SYNCHRONOUS BOOKS)、『上杉謙信の夢と野望』(KKベストセラーズ)、『平将門と天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)など。書籍監修や講演活動なども行なっている。1974年生まれ。高松市出身、相模原市在住。

氏治敗北当時の状況

 弘治2年(1556)、小田氏治が本拠地・小田城を奪われ、奪還する前後の関東を簡単に一望したい。

 まずは、北条氏康から見ていこう。関東は氏康を中心に動いていた。

相模国の北条氏康

 合戦前年の弘治元年(1555)11月22日、小田原城主・北条氏康が烏帽子親となり、前関東公方・足利晴氏の次男・梅千代王丸を下総国・葛西城で元服させ、その名乗りを足利義氏に改めさせた。この時、義氏13歳。なお、同年に氏康嫡男・氏政も17歳で元服している。...