
連戦連敗のデータから「戦国最弱」と呼ばれる武将・小田氏治。あまり有能ではないイメージが定着しつつある。だが、本当に弱い武将が何度も大きな合戦にチャレンジできるのだろうか。本連載では有名な戦績データがどこまで事実であるかを確かめながら「小田氏治」の実像に迫りなおす。
第16回となる今回は「三村合戦の勝利」について
戦国時代、小田氏治は「戦下手」と語られがちだが、永禄六年、三村合戦で強敵・大掾貞国から領地を奪う鮮やかな勝利を収めた。編纂史料にあまら記録されないがために、地味に見られがちな一戦を再検証する。
歴史家。著書に『戦国大変 決断を迫られた武将たち』『謙信越山』(SYNCHRONOUS BOOKS)、『上杉謙信の夢と野望』(KKベストセラーズ)、『平将門と天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)など。書籍監修や講演活動なども行なっている。1974年生まれ。高松市出身、相模原市在住。
貴重な勝ち戦の前に「小田中務少輔」について
今回は、小田氏治の数少ない勝利の話をしよう。
その前に、前回、小田中務少輔について推論を述べたが、同時代の人物、岡見宗治が「中務少輔」を称している(岡見文書「小田天庵書状」/『土浦市史資料集 土浦関係中世史料集下巻』二一九ページ文書)。
六月廿二日 天庵〈花押〉
岡見中務少輔殿
おそらく彼が、小田一族として氏治の代わりに長尾景虎の元へ馳せ参じたものであろう。
よって、「小田中務少輔」は「岡見宗治」と仮定したい。
三村合戦、初めての大きな勝利
永禄五年(一五六二)、常陸国太田城主・佐竹義昭が、隠居を宣言した。
長男・義重に家督を譲り、同国府中城(石岡城)の大掾貞国の妹を後妻に娶ると、同城へ移ったと伝わっている。前妻はすでにこの世になかったようだ。
しかし、実権を長男に譲り渡すとしても、後見人としてその指導が必要であろう。おそらくまだこの時は太田白に留まっていたのではなかろうか。
ともあれ、大掾家は半ば独立的な勢力として、小田家とは度々争ってきた領主である。
そこに佐竹家の元当主が婚姻関係を結ぶのは、氏治にとって警戒すべき出来事だった。
原因は、関東が越後上杉陣営と相模北条陣営に二分されたことにある。佐竹家は上杉陣営、小田家は初期のうちこと、上杉寄りであったが、途中から北条陣営に鞍替えした。すると、周辺の友好関係がひっくり返る。
仇敵だった結城家や那須家は小田氏治の仲間となり、協調関係を深めていた。
義昭はこれを黙って見過ごすことはできなかった。
こうして常陸の勢力図も揺れ動くこととなり、翌年(一五六三)、小田氏治は新治郡の三村の地で大掾貞国と交戦することになった。...