小田家と豊臣、徳川との関係性
連戦連敗のデータから「戦国最弱」と呼ばれる武将・小田氏治。あまり有能ではないイメージが定着しつつある。だが、本当に弱い武将が何度も大きな合戦にチャレンジできるのだろうか。「歴史ノ部屋」で配信する本連載では有名な戦績データがどこまで事実であるかを確かめながら「小田氏治」の実像に迫りなおす。
慶長6年、結城秀康の庇護下にあった小田天庵(氏治)は、越前福井の地で71年の生涯を閉じた。不死鳥の血脈が絶えたわけではなかった。大坂の陣を戦った孫たちや大名家に繋がる娘など、激動の時代を越えて近世へと逞しく生き延びた一族のその後を追跡する。
(連載「戦国の不死鳥 小田氏治」ラスト2回!)
著者・乃至政彦
歴史家。著書に『戦国大変 決断を迫られた武将たち』『謙信越山』(SYNCHRONOUS BOOKS)、『上杉謙信の夢と野望』(KKベストセラーズ)、『平将門と天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)など。書籍監修や講演活動なども行なっている。1974年生まれ。高松市出身、相模原市在住。
歴史家。著書に『戦国大変 決断を迫られた武将たち』『謙信越山』(SYNCHRONOUS BOOKS)、『上杉謙信の夢と野望』(KKベストセラーズ)、『平将門と天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)など。書籍監修や講演活動なども行なっている。1974年生まれ。高松市出身、相模原市在住。
(1)【新連載】「戦国の不死鳥」小田氏治の官名「讃岐守」は本人の希望だったのか
(2)「戦国の不死鳥」小田氏治、父の死により18歳で当主になる
(3)上杉謙信と小田氏治は本当に戦ったのか?山王堂合戦の真実
(4)上杉謙信と小田氏治が戦った山王堂合戦が〈創作〉された理由
(5)意外に知られていない小田氏治初陣「柄ヶ崎合戦」の真相
(6)小田氏治の父・政治はなぜ、我が子を苦しい戦いに派遣させたのか?
(7)小田氏治、19歳で書いた初見文書で見えてくるもの
(8)結城家が築城したとされる「海老ヶ島城」は、小田家のものだった?
(9)史上最大の決戦「海老ヶ島合戦」前夜、北条氏康の計略と小田氏治の誤算とは?
(10)関東を二分する決戦「海老ヶ島合戦」、小田氏治の計略を覆した結城政勝の英断とは?
(11)戦国の不死鳥・小田氏治の敗戦処理能力、本拠地小田城を何度も手放した理由は?
(12)【戦国の不死鳥・小田氏治】海老ヶ島合戦の運命を分けた敵将の決断力
(13)【戦国の不死鳥・小田氏治】「3つの視点」から考察、なぜ奪われた本拠地をすぐに取り戻せたのか?
(14)【戦国の不死鳥・小田氏治】北条氏康、太田資正…激動の関東、各勢力の駆け引き
(15)「戦国最弱」小田氏治はどうすれば戦国最強になれたか?
(16)戦国最弱の武将・小田氏治は「中務少輔」だったのか?
(17)「鮮やかすぎて記録に残らなかった」戦国最弱・小田氏治の数少ない勝利の話
(18)上杉謙信vs戦国最弱武将・小田氏治「どの軍記にも描写されていない」謎の対決の全容
(19)【戦国最弱武将・小田氏治】上杉謙信に奪われた居城の奪還。重なった2つの幸運。
(20)上杉謙信が「降伏した小田氏治の独立」を認めた理由を、関東情勢と戦略的事情から考える
(21)戦国最弱武将・小田氏治、居城陥落までの攻防を一次史料から読み解く
(22)戦国最弱武将・小田氏治は、なぜ「忠臣」を粛清したのか?
(23)戦国最弱武将・小田氏治「連歌の席で城を奪われた?」「長男を人質に出した時期」「正室と側室」
(24)戦国最弱武将・小田氏治と上杉謙信に奪われた小田城の関係
(25)戦国最弱と呼ばれる武将・小田氏治、忠臣の裏切り説が囁かれた理由とは。
(26)【戦国最弱武将・小田氏治】順調だった勢力再編計画を狂わせた「上杉謙信の急死」
(27)戦国最弱武将・小田氏治は、なぜ日本人に愛されるのか?
(28)「上杉謙信の急死」「御館の乱」が、関東情勢と戦国最弱武将に与えた大きな影響
(29)【常陸の不死鳥・小田氏治】宿敵との和解、そして引退。それでも失われなかった野心と執念
(30)【戦国最弱と呼ばれた武将・小田氏治】人質になった孫を失ってでも成し遂げたかった小田城の奪還。その失敗までの経緯。
(31)戦国最弱と呼ばれた武将・小田氏治、史料が示す戦国大名としての最後
(32)戦国最弱と呼ばれた武将・小田氏治は豊臣政権下で何をしていたのか?
(33)戦国最弱と呼ばれた武将・小田氏治、史料が示す子孫たちのその後
小田氏治の死
慶長6年(1601)閏11月13日。
結城秀康のもとに客分として迎えられていた小田天庵は、越前国福井において死去した。引っ越して一年ほどの期間であるから、環境の変化、特に慣れない北陸の冬の厳しさに苦しんだのだろうか。
享禄4年(1531)生まれ説を採るなら享年71。
法雲寺からの諡は「正国院殿南江道薫大居士」と伝わる(関連系図類より)。
小田氏治の息子と娘
ここで天庵の息子と娘の人生を見てみよう。
長男の友治は、晩年に「帰庵」と称して慶長9年(1604)2月3日に死去した。享年57。
家督相続者の守治は父の死から9年後、異母兄の死から6年後の慶長15年(1610)2月17日に亡くなった。戒名、隣山長徳。享年54。
続けて実否の確認は難しいが、『校訂刪補常陸八田家小田氏系図』に基づいて三男と四男および娘たちについて見ていく。...
