
連戦連敗のデータから「戦国最弱」と呼ばれる武将・小田氏治。あまり有能ではないイメージが定着しつつある。だが、本当に弱い武将が何度も大きな合戦にチャレンジできるのだろうか。本連載では有名な戦績データがどこまで事実であるかを確かめながら「小田氏治」の実像に迫りなおす。
今回は手這坂合戦の敗戦直後、土浦城で起きた「重臣・信太氏謀殺事件」を取り上げる。軍記が語る謀殺劇に対し、史料は異なる被害者の実像を映し出す。強引な居城奪取の背景とは? また、粛清を逃れ、遠く薩摩へ流れた信太一族の知られざる実相を、元亀年間の情勢とともに解説する。
歴史家。著書に『戦国大変 決断を迫られた武将たち』『謙信越山』(SYNCHRONOUS BOOKS)、『上杉謙信の夢と野望』(KKベストセラーズ)、『平将門と天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)など。書籍監修や講演活動なども行なっている。1974年生まれ。高松市出身、相模原市在住。
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木田余城の家臣・信太某について
永禄12年(1569)11月23〜24日の手這坂合戦に敗れた小田氏治は、小田城への帰還を諦めて、南方の土浦城に撤退した。
その後、氏治は、木田余城の家臣・信太を討ち取り、その居城を奪い取る。
一定程度、信頼できる史料として、しばしば引用している『烟田旧記』には、「永禄十三ねん[午庚]正十二日庚辰 信太殿つちうらにてしやうかい(生害)、その日小田[欠]うち治様きなまり(木田余)へ打入被成候、用火用也」とある。
そして、『明光院記』(および『(四)吉備雑書』)にも「[永禄十三]信田(信太)殿二月十二日シヨウガイ」とある(両者同文)。
永禄13年こと元亀元年(1570)1月12日に、土浦城で信太を殺害して、氏治自らその日のうちに木田余城を制圧したことは事実と見ていいだろう。
しかし、これだけではなぜ、土浦城に避難している小田氏治が、わざわざ重臣を殺害して、その居城に移転したのかわからない。
研究者たちの間でも答えが出ていない問題だから、ここで簡単に結論が出せるわけではないが、可能な範囲で迫ってみよう。
信太和泉守か、それとも?
後世の『小田軍記』『小田天庵記』は、小田重臣の菅谷(左衛門尉正光)はこの事件を、小説的に仕立てており、「大剛」の信太(ここでは和泉守重成)に自分たちも「武運傾ける大将」の氏治に恨みがあるから、連携して逆心を起こそうと提案し、密談を進める中、秋の名月の夜に、美しい少女と酒で弱らせ、翌朝、信太が厠から出てくるところを斬殺したとする。
このため、謀殺されたのは、信太和泉守と見られることが多い。...

