「豊臣秀吉VS北条家」の戦いの裏で
連戦連敗のデータから「戦国最弱」と呼ばれる武将・小田氏治。あまり有能ではないイメージが定着しつつある。だが、本当に弱い武将が何度も大きな合戦にチャレンジできるのだろうか。「歴史ノ部屋」で配信する本連載では有名な戦績データがどこまで事実であるかを確かめながら「小田氏治」の実像に迫りなおす。
秀吉の小田原征伐が目前に迫る天正18年前期。小田天庵は佐竹軍の隙を突き、小田城へ最後の攻撃を仕掛けた。世にいう樋口合戦である。かろうじて藤沢城を守り切った天庵だが、不死鳥の命運もついに尽きようとしていた。
ここに史料の隙間に隠れた小田天庵と佐竹義宣の静かな戦いの結末を追う。
歴史家。著書に『戦国大変 決断を迫られた武将たち』『謙信越山』(SYNCHRONOUS BOOKS)、『上杉謙信の夢と野望』(KKベストセラーズ)、『平将門と天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)など。書籍監修や講演活動なども行なっている。1974年生まれ。高松市出身、相模原市在住。
小田天庵、最後の賭け
天正18年(1590)正月29日、藤沢城の小田天庵は、梶原政景の籠る小田城を攻撃した。
いわゆる「樋口合戦」である。
この頃には、北条氏政・氏直と豊臣秀吉の間で、大きな戦争が開始されようとしていた。
小田城を不条理に奪われた憤りに加え、北条と豊臣の開戦が迫る中、佐竹軍の主力が伊達政宗と戦おうとする奥州遠征の隙を突いた、まさに起死回生を狙った最後の博打であった。
だが、梶原政景は天庵の想定以上に強かった。
この合戦は同時代史料の、天正18年に比定される2月20日付・正木頼時宛梶原政景書状(武州文書)に次のように伝えられている。
意訳すると次のようになろうか。
さすがに道誉の長男・梶原政景は戦巧者であった。
籠城しても守りきれないと判断して、打って出る決断を下し、無理をして兵を動かしたであろう天庵を「樋口(「筑西市樋口」とされることもあるが、小田城から遥か北方のため、地理的に一致しない)」で打ち破った。
なお、『太田家譜』によれば、佐竹家臣の多賀谷重経が「千余騎」の援軍で後詰に着陣したばかりであったという。
次にこの合戦に参加した太田資武(梶原政景の弟)の『太田資武状』の記録を見てみよう。
この戦いでは、69歳の太田道誉も参加して馬を乗り入れ、武功を挙げたという。
政景たちは勝利に乗じて藤沢城の「総構外張」まで追い詰め、「数百人」を討ち取ったが、手元に小勢しかいないため、無理な城攻めを続けることなく、撤退した(『太田家譜』)。
最後の追撃
しかし、戦いはこれで終わりではなかった。...