
「歴史ノ部屋」新連載が本日からスタートです。
陣笠、旗指物、お貸し具足──誰もが思い浮かべる「足軽」の姿は、実は後世に作られたフィクションだった。彼らは農民だったのか、略奪は日常だったのか。
同時代の史料を手掛かりに、足軽から戦国社会の実像へ迫る。
歴史家。著書に『戦国大変 決断を迫られた武将たち』『謙信越山』(SYNCHRONOUS BOOKS)、『上杉謙信の夢と野望』(KKベストセラーズ)、『平将門と天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)など。書籍監修や講演活動なども行なっている。1974年生まれ。高松市出身、相模原市在住。
ちび太のおでん型はフィクション
これから「戦国の足軽」をテーマに連載をスタートしていく。
まず、戦国時代の足軽と聞いて、どのようなイメージを思い浮かべるだろうか。
平たく言えば、ちび太のおでん型であろう。
三角こんにゃくみたいな陣笠、ゆで卵みたいな剥き出しの顔、はんぺんみたいな胴丸。そして一本の木製スピア──。
テレビドラマや映画、歴史ゲームに登場する足軽は、粗末な陣笠を被り、背丈ほどの槍を抱えて集団で右往左往している。
普段は田畑を耕す純朴な農民で、戦が始まれば領主の命令で無理やり駆り出される犠牲者である。
農閑期には小遣い稼ぎのために戦場へ赴き、戦に勝てば敵の陣地で略奪に勤しみ、負ければちりぢりに逃げ散っていく。
彼らの素性は、落ち武者狩りを行うしたたかで残忍な一面を持つ村人なので、戦場での破壊や収奪に抵抗がない。
こうした足軽と農兵、あるいは雑兵を結びつけるイメージは、現代の私たちの間に深く根付いている。だが、当時の一次史料を丁寧に読み解いていくと、その常識は成立しない。
ドラマやアニメなどの創作物に描かれるこれらの足軽は、「黒装束で八方手裏剣を連射する忍者」と同じぐらい完全なるフィクションである。
その虚像の形成に大きく寄与したのが、江戸時代前期の小説『雑兵物語』だ。この作品は当時の足軽たちの日常や苦労を生き生きと描いているとして、長く戦国時代のリアルを伝える史料のように扱われてきた。
だが、この書物の成立は、戦国時代が遠く過ぎ去った泰平の世になってからである。そこに登場するのは、もはや実戦を知らない新世代の足軽たちだ。元は侍であったり、百姓であったりと、身分を失い無職となった者たちが軍役の末端を担っているに過ぎない。
しかも登場するのはいずれも架空の人物で、戦場の流儀も伝聞形式で語り合っており、それがどこまで信用できるのかは、甚だ疑わしい。もちろん、参考になる部分も少なくないはずだが、判断に迷うところばかりだ。
平和な時代の彼らの言動を、血で血を洗う戦国時代の足軽にそのまま接続するのは、とても危うい。槍は叩くもの、戦場はとにかく飢餓であるから、木の枝でもなんでも拾っておけ、陣笠を鍋の代わりにしろ、などという教えがどこまで戦国の常識を伝えているか。一個ずつ再検証する必要があるだろう。
このため、ここでは同時代またはそれに近似する史料をベースに、中近世移行期の足軽の実態を追求しなおしていく。
足軽と農民の関係を切り離す
それを知るための第一歩は、足軽と農民を明確に切り離すことである。彼らは全く無関係の存在だった。
足軽の起源は、南北朝時代に暗躍した悪党と呼ばれる非定住の集団にまで遡る。
彼らが室町幕府に雇用されることで「悪党」という表現から解放され、足軽という名に転じた。
彼らは農作業の合間に槍を持った素人ではない。
工兵としての役割から破壊工作までを専門に担う、独自の集団だった。
もちろん戦闘にも従事するが、武士の論功行賞の枠組みの外にいたため、敵の首を取ることに関心がない。あくまで自分たちの論理で戦場を駆け回っていた新世代の軽歩兵である。
応仁の乱が終わると、学者の一条兼良が将軍に「足軽停止令」を建白し、幕府は足軽離れを進めたが、それでも彼らは幕府外縁で多用され続けた。
その中で特異な一個の集団があった。
伊勢新九郎とその護衛たちである。
彼らの子孫たちは後に足軽出身であることが系図に示されている。
新九郎は、幕府に使い捨てられた彼らに新しい食い扶持を与える形で東海道へ下向していったのである。その後、東国に足軽が集団化されていく。特に、組織的な運用に活用したのは、甲斐国の武田信虎、武蔵国の太田道灌らである。
こうして東国で、新世代型の足軽が普及することになった。
この流れに足軽=農兵の想像が入る余地はない。
戦国時代の百姓は強かったのか?
農民が大名の足軽役を担っていなかったとすると、彼らのイメージも変わってくる。次はこちらの一般的なイメージを再確認していこう。
黒澤明映画の『七人の侍』時代とは異なり、近年の村人イメージは、武装して村同士の紛争を行い、戦場を漁り、落武者狩りをも行う暴力的な存在と見られがちである。
だが、これも一部の例外を極端に拡大解釈したものに過ぎない。
当時の史料が語る普通の村民は、まともな戦闘技術がなく、流血沙汰はあくまで最後の手段であった。稀に村と村で紛争することがあるが、それは一部の地域で、限定的な時代に見られる現象である。わたしは、どちらかというと、当時の農民の非力さは『七人の侍』が描く農民に近かったのではないかと考える。
これは史料にも見えることだが、自分たちの集落へ、たった一人の武装した賊が接近しただけで、こぞって逃げ出してしまうのが彼らの実態だった。大名に対する帰属意識も持ち合わせてはおらず、国民皆兵制もない。一部の特例として、村から戦闘向きの人物を選別して提出する布告を確認できるが、これすらもまともに集まった様子がない。
しかし、彼らはただ怯えて暮らすだけの存在ではない。
その象徴が戦地禁制の存在である。
大名が遠征先の村落や寺社に立てさせるこの高札は、自軍の兵に対して地域秩序の妨害を厳禁するものだ。通説は、これを村落側が略奪を回避するために要請したものと解釈してきた。
実態は異なる。戦地禁制とは、村落と寺社が大名たちに金銭を送り、低姿勢な要請を行って現地に送られる営業活動の一環だった。
生産力と人口が増加した戦乱の時代
戦国時代の大軍は、数万の人間が移動する巨大な消費集団である。大名の軍隊は歩兵を充実させる形で巨大化し、大規模移動の遠征を繰り返した。
彼らが消費する食料や物資、そしてカロリーの総量は莫大なものだ。大名たちはこの大軍を維持するための物資を後方から輸送するのではなく、現地調達に依存していた。そして、この現地調達とは無秩序な略奪ではない。
そんなものに依存していて、戦国百年の社会が持続可能とは思われない。実際にはそもそも生産力、人口が飛躍的に増加した時代である。 戦国社会に関する通念、通説には、このように再考の余地が少なからず見受けられる。
文献史学者たちの「史料にあることが常識とずれていたら、常識よりも史料を重視すべきだ」とする考えは理解できる。
だが、史料から見えるイメージを形づくっていく過程で、常識を放棄してしまうのは一種の思考停止である。そうではなく、常に常識をも維持して、史料と火花を散らすように向き合わせる緊張を保たなければ、現実離れした歴史像が作られてしまう。
複数の矛盾するような価値観、認識をぶつけ合う、自己批判のような思考法を捨ててしまっては、何も見えなくなってしまう。
この連載では、足軽の実態を追跡し、その実像を組み立て直すことで、戦国時代の社会構造そのものまで見直していく。
なお、過去に単発で掲載した内容も再検討を加えて、こちらに組み込み、再整理させていただく。
これからの論考は未開拓への踏み込みも多いので、拙いところもあろうと思うが、その際には遠慮なくご意見を頂戴したい。そして、「足軽」について、知りたいことがあれば、なんでも質問してほしい。
全てに応答できるかわからないが、できるだけ連載の中に取り入れて、その実否追求の営みに含めて披露したいと考えています。
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