大人気シリーズ「謙信と信長」もうすぐ完結。

戦国最強武将の「知られざる」戦い。一次資料をもとにその姿を解き明かす大人気シリーズ。

ここまでのあらすじ

『謙信と信長』目次 

【最新回】―(29)信長を裏切った男
 ・濃越同盟の硬直化
 ・重なり合う互いの「分国」
 ・不十分な連携
 ・蘭奢待より洛中洛外図屏風を選んだ信長
 ・不発に終わる武田挟撃作戦
 ・謙信の叱責に弁明する信長
 ・一変する謙信の武田勝頼評
 ・足利義昭の謙信勧誘
 ・上杉謙信の戦略転換

濃越同盟の硬直化

 上杉謙信と織田信長は、これまで足利義昭を将軍として奉戴することを原則として良好な関係を築き、やがて武田信玄という共通の敵への対策から軍事同盟を結び合った。

 ところが信玄が病没して、さらに義昭が信玄に同調して信長相手に挙兵してしまった。ここに信長が義昭を京都から追放する事態となってしまい、両者の関係を繋ぎ止めるものは、信玄の跡を継承した武田勝頼への対策、およびもう一つの共通の敵である本願寺一向一揆衆への対策がメインと化していった。つまり敵の敵は味方という論理である。

 信玄は勝頼に「謙信を敵と思わずに彼を頼りとするように」と遺言し、謙信も信玄が亡くなると城下に音楽を停止させ、その死を悼んだと伝えられている。

 信玄死後、多方面に敵を抱える信長と謙信の関係は、次第に硬直化することとなる。

重なり合う互いの「分国」

 ここで天正元年(1573)後半からの上杉謙信と織田信長を見てみよう。

 この時は信長・家康との対武田同盟(布施秀治『上杉謙信伝』謙信文庫・1917にて「越参濃三国同盟」と称されるように古くから認知されている同盟)が機能的に生きており、同年末越中への戦争に勝利して春日山城に凱旋した謙信は、12月3日付の徳川家臣・松平親乗宛書状に「(越中が片付いたので)信・関手合申心中無他事候、可心安候」と述べており、武田領侵犯を公言していた。謙信は武田軍に苦戦を強いられている徳川家を安心させようとしていた。

 ところで織田信長は12月28日付の伊達輝宗宛書状で、朝倉義景を殺害して越前を平定したあと「以来、若狭・能登・加賀・越中、皆以為分国属存分候」などと北陸を自分の「分国(=領域)」にしたと述べた上で、「来年甲州令発向、関東之儀可成敗候」と、甲斐および関東への侵攻作戦を伝えており、武田領ばかりか関東の北条領まで平定する予定であることを伝えている。

 武田領は自分たちの敵なので当然のことであるにしても、自分とまだ直接敵対していないはずの北条領まで視野に入れているのは、不可解に見えるかもしれない。だが、これは信長が上杉謙信とともに天下を分かち合うつもりでいたと考えれば、一応の理解はできそうである。自分の敵は謙信の敵であり、謙信の敵も自分の敵だと認識していたのではないだろうか。

 ここに「分国」としてある国々は、厳密には信長の領国ではなく、信長に属することを申し出る現地将士がいた範囲であろう。越中は謙信も自身の「分国」と認識していた(元亀3年6月15日付・上杉謙信願文に「越中・信州・関東・越後、藤原謙信分国、有無事安全長久」を祈念している)。

 ここでいう「分国」とは自分の支配する国のことではなく、自分を頼りとして、その強い影響下にある非独立領域と見ているものと考えるのが実情に即している。信長も謙信も越中の支配者を自分と考えて排他的な支配を考えているわけではない。それに2人は互いに向かって「越中は自分の分国」だと主張しているわけでもない。それぞれどちらの目にも入らない範囲で述べているだけである。

 信長にとって謙信は、自分が将軍・足利義昭を追放したあとも、これまで通り味方でいてくれている信義ある武将であり、徳川家康同様、大切な盟友だと考えていたのではないだろうか。

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