連戦連敗のデータから「戦国最弱」と呼ばれる武将・小田氏治。あまり有能ではないイメージが定着しつつある。だが、本当に弱い武将が何度も大きな合戦にチャレンジできるのだろうか。本連載では有名な戦績データがどこまで事実であるかを確かめながら「小田氏治」の実像に迫りなおす。
天正初年、関東の戦国世界は静かな転換期を迎えていた。上杉謙信、北条氏政の二大勢力が拮抗する中で、常陸の小田氏治は、その狭間を縫うように勢力の回復を進めていく。上杉にも北条にも決定的には与せず、在地勢力の再編を図るその動きは厳しいながらも、一定度の順調さを見せていた。
しかし、その流れを断ち切ったのが、天正6年の上杉謙信急死である
歴史家。著書に『戦国大変 決断を迫られた武将たち』『謙信越山』(SYNCHRONOUS BOOKS)、『上杉謙信の夢と野望』(KKベストセラーズ)、『平将門と天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)など。書籍監修や講演活動なども行なっている。1974年生まれ。高松市出身、相模原市在住。
上杉謙信に援軍を求める小田氏治
元亀2年(1571)12月、氏治は、眞壁久幹と起請文を取り交わし、佐竹への抵抗態勢を強化すると共に、越後国の上杉謙信とも連絡を取り合い、佐竹方の連合軍への攻撃作戦実行を求めた。
謙信は小田城を降伏させたあと、それをすぐ小田氏治に返し、臼井城合戦から撤退してからというもの、関東の反北条派への積極的な軍事支援を停止した。
氏治は、ここで北条家との関係を断つわけでもなく、反北条派と組むわけでもなく、二大勢力の構図が霧散してからは、両派から独立した勢力として、佐竹義重と対立を深めることになった。
こうした経緯から、氏治と謙信の関係は大きな進展を見ないまま推移し、援軍要請に応じる動きも、最終的には頓挫した。
天正3年(1575)3月、佐竹家と上杉家との盟約復活が画策され、年末までに成立する。同時期、佐竹家と小田氏治の間に「縁辺」の取組(縁組)が噂されていて、謙信はこれを不審視していたとみられる。
その後、謙信のもとに、氏治と義重が和睦を模索したという連絡が入っているが、具体的な進展は何もなかったようである。
天正5年(1577)、氏治は蘆名盛氏の重臣・佐瀬平六に、北条氏による佐竹攻撃に協力するよう要請したが、それも不首尾に終わっている。
結局、大きな情勢の変化はなく、謙信との関係も、佐竹義重との関係も氏治にとって大きな利益は得られなかった。
北条家との関係
天正2年(1574)閏11月、相模の北条氏政から、北条方が上杉方の下総の関宿城を制圧した報告を受けており、上杉家との関係よりも、北条家との関係を重視するようになっていたと見える。
この背景には、北条家に証人と差し出した長男・小田友治の存在があっただろう。
氏治は、後妻との間に生まれた次男を後継者としていたが、それでも親子の関係は外交に作用する。
天正5年(1577)、北条氏政が、離反した結城晴朝への侵攻を企て、小田氏治もその戦いに従軍することになり、北条軍は小田城近くまで接近した。
これを機会に氏治は、これまでの戦いで佐竹方に転属していた、戸崎・宍倉の菅谷氏、海老ヶ島の平塚氏を再吸収することを目論む。
彼らは佐竹義重に救援を要請したが、結果として援軍を得られず、小田家に帰参することになった。
ここまで氏治は、謙信や氏政のパワーバランスを慎重に観察しながら、勢力回復と拡張を順調に進めていた。
戦国関東を狂わせた御館の乱
今回の勢力の動きは、主に中根正人氏の研究を踏まえて整理したものであるが、ここで氏治の運命を大きく狂わせる出来事が発生する。...
