
連戦連敗のデータから「戦国最弱」と呼ばれる武将・小田氏治。あまり有能ではないイメージが定着しつつある。だが、本当に弱い武将が何度も大きな合戦にチャレンジできるのだろうか。本連載では有名な戦績データがどこまで事実であるかを確かめながら「小田氏治」の実像に迫りなおす。
第17回のテーマは「小田氏治と上杉謙信」。
小田氏治は、上杉輝虎(後の謙信)陣営から、北条氏康陣営に鞍替えし、勢力拡大を図った。その裏切りが引き金となり、永禄七年(1564年)、越山した輝虎が小田城に差し迫る。本稿では、上杉輝虎と小田氏治、初の軍事紛争がどのような対決であったかを信頼できる史料から浮き彫りにしていく。
歴史家。著書に『戦国大変 決断を迫られた武将たち』『謙信越山』(SYNCHRONOUS BOOKS)、『上杉謙信の夢と野望』(KKベストセラーズ)、『平将門と天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)など。書籍監修や講演活動なども行なっている。1974年生まれ。高松市出身、相模原市在住。
上杉輝虎の常陸侵攻
三村合戦で確実な勝利を得た小田氏治は、周囲から大きな脅威と見られていた。北条氏康や結城晴朝を味方につけたことが勝因の一つであるだろう。
氏治は外交関係を逆転させたことで、運気を転換させたのだ。
だが、そこには大きな誤算があった。
現在の外交情勢は、永禄三年から四年(一五六〇〜六一)にかけての、長尾景虎の越山時代と反対になっていた。
この時、氏治は代官を派遣して、景虎に味方した。
それだけではない。
同じ常陸国の佐竹義昭、下野国の宇都宮広綱と一緒になり、景虎に積極的な進言を行ない、鎌倉に入らせ、上杉憲政の養子とさせ、関東管領名代職・上杉政虎へと改名させたのである。
当時のこの三人の思惑を推測するに、景虎の越山を一過性のものに終わらせたくなかった。
景虎の武力を利用すれば、関東情勢をコントロールしやすくなる。
だから、越後国に帰る前に、上杉家の家名と、関東管領名代職に縛りつけ、関東の争乱から離脱できないようにしたのである。
しかし、氏治は景虎の越山でさしたる利益を得られず、周辺情勢を見直して、上杉陣営から北条陣営に鞍替えした。
ここに飛躍の機会を得たわけであるが、自分でお膳立てした後の上杉謙信を敵に回すことになったわけである。

やりすぎた氏治
永禄四年末までに、政虎は上杉輝虎に改名した。
しかも、単に敵陣営に転属しただけであれば、越後国の上杉輝虎が遠くからわざわざ遠征することはないはずだった。
ところが輝虎は、氏治の「猥之儀」を起こしていることを不快に思っていた。...