
連戦連敗のデータから「戦国最弱」と呼ばれる武将・小田氏治。あまり有能ではないイメージが定着しつつある。だが、本当に弱い武将が何度も大きな合戦にチャレンジできるのだろうか。本連載では有名な戦績データがどこまで事実であるかを確かめながら「小田氏治」の実像に迫りなおす。
永禄9年、輝虎(上杉謙信)に完全降伏した氏治は、小田城を安堵されたのか、破却されて追放の憂き目に遭ったのか。輝虎の戦略的事情と関東情勢を見通していくことにより、氏治が独立を保ち得た幸運の背景を解き明かす。
歴史家。著書に『戦国大変 決断を迫られた武将たち』『謙信越山』(SYNCHRONOUS BOOKS)、『上杉謙信の夢と野望』(KKベストセラーズ)、『平将門と天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)など。書籍監修や講演活動なども行なっている。1974年生まれ。高松市出身、相模原市在住。
輝虎リターンズ
小田氏治の拠点奪還に対する反小田派の対応も早かった。
永禄8年(1565)11月24日、上杉輝虎はすぐに「関東為仕置」のための越山を開始し、27日には柏崎に入った(『新潟県史』三一八〇・三一八一号文書=『上越市史』四七八・四七七号文書)。
こうして雪の峠を踏み越えて、越後国の大軍が関東に迫ってくる。
この迅速な決断の背景には、劣勢に陥った関東情勢への危機感があった。
もし、氏治が動かなかったとしても、上杉陣営の勢力回復を狙うため、関東に遠征したことだろう。
小田城攻撃は、その軍事行動の一環にあって、主目的ではない。
同年中、輝虎は上野国に入り、佐竹義重の参陣を促した。
翌年(1566)正月末、輝虎は下野国の佐野に進軍。
関東に入った輝虎のもとに、現地将士が馳せ参じた。
輝虎はこの佐野攻めに着手しながら、関東の武将たちに動員人数を定めている。
結城 二百騎
小山 百 騎
榎本 三十騎
是ハ小田本意之以約束、ハ可相立事、
佐野 代官 二百騎
横瀬 二百騎
長尾但馬守 百 騎
成田 二百騎
廣田 五十騎
木戸 五十騎
梁田 百 騎
富岡主税助 三十騎
北條丹後守
沼田衆
房州衆 五百騎
是ハ、金山口號調儀、可引立事、
酒井中務丞 百 騎
太田 百 騎
野田 五十騎
宇都宮 代官 二百騎
佐竹 同心共代官 二百騎
以上、
ここに結城と小山と榎本は、「小田本意」を達したら、味方する約束であることが記されており、つまり小田氏治を攻略したら、今回の遠征に付き従うことになっている。
輝虎は、関東情勢をこの遠征で一度に変えるつもりであった。そのためにも小田城の攻略を速やかに終わらせなければならない。
輝虎の進軍と小田氏治の降伏
2月中、輝虎は佐野を始めとする下野国の抵抗勢力を降伏させると、小田城に迫った。...

      
      
      
      
      
      
      
      
      
      
      
      
      
      
      
      
      
      
      
      
      
        
        
        
        
        