連戦連敗のデータから「戦国最弱」と呼ばれる武将・小田氏治。あまり有能ではないイメージが定着しつつある。だが、本当に弱い武将が何度も大きな合戦にチャレンジできるのだろうか。「歴史ノ部屋」で配信する本連載では有名な戦績データがどこまで事実であるかを確かめながら「小田氏治」の実像に迫りなおす。
小田城も木田余城も佐竹方に奪われ、残る拠点は土浦城のみ。ついに再起の頼みとなる後ろ盾も失った小田氏治は、ついに宿敵・佐竹義重との講和を決意する。
嫡男に家督を譲り、法体となって「天庵」と名乗った氏治。これでついに、戦国の不死鳥も歴史の表舞台から静かに姿を消すかに見えた。しかし、彼が残した文書や肖像画は、隠居の身となってもなお牙を研ぎ続ける、したたかな野心と不屈の執念を雄弁に物語っていた。
歴史家。著書に『戦国大変 決断を迫られた武将たち』『謙信越山』(SYNCHRONOUS BOOKS)、『上杉謙信の夢と野望』(KKベストセラーズ)、『平将門と天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)など。書籍監修や講演活動なども行なっている。1974年生まれ。高松市出身、相模原市在住。
佐竹義重との講和
氏治は、小田城も木田余城も佐竹方に奪われて、土浦城だけが残されていた。
そして天正7年(1579)七月から八月にかけて、氏治に滅亡の危機が迫る。
北条氏政と敵対する佐竹義重は、北条家と対立した武田勝頼と同盟を結び、武田軍の動きと連携して、土浦城を攻めたのである(『土浦市史資料集 土浦関係中世史料集 下巻』142頁・真壁文書)。
七月廿九日 義重〈花押〉
真壁式部大輔(真壁義幹)殿
しかし、土浦城は制圧されず、義重は退陣した。
それでも最早、氏治に再起の芽は、ほぼ潰えていた。後ろ盾となってくれる北条が、武田や上杉と抗争を開始したことにより、援軍を頼めなくなったからだ。
このため、同年12月、氏治は「佐竹へ御入魂(佐竹義重と親密である)」という会津の蘆名止々斎に、「佐竹申談度所存(義重と話し合いをしたい)」と伝えて、義重との仲介の労を依頼した(『土浦市史資料集 土浦関係中世史料集 下巻』207頁・続常陸遺文)。
こうして氏治は、義重と和解することになったようで、その後、両者の抗争は史料に見られなくなる。
氏治が佐竹との交渉に切れるカードは、すでに何も残されていなかっただろうが、北条との連携を凍結する約束ぐらいはしたであろう。
義重も下野の宇都宮に出陣して、小山・榎下・小泉の攻略に専念する必要があった。北条氏政との決着をつけるために、勢力圏の確保が重要で、敵を減らすことは重要な課題であった。
引退して「天庵」と称する
やがて、氏治は嫡男の守治に家督を譲り、「天庵」の法号を称することになる。...
