土浦城址

 連戦連敗のデータから「戦国最弱」と呼ばれる武将・小田氏治。あまり有能ではないイメージが定着しつつある。だが、本当に弱い武将が何度も大きな合戦にチャレンジできるのだろうか。本連載では有名な戦績データがどこまで事実であるかを確かめながら「小田氏治」の実像に迫りなおす。

 今回は、小田氏治について、読者の方から質問があったので、これに応じる特別Q&A編。氏治は本当に「連歌の席で城を奪われた愚将」だったのか。ネット辞書にある妻の実名、人質に出された子の正体、家臣誅殺の真相──とは?

著者・乃至政彦
歴史家。著書に『戦国大変 決断を迫られた武将たち』『謙信越山』(SYNCHRONOUS BOOKS)、『上杉謙信の夢と野望』(KKベストセラーズ)、『平将門と天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)など。書籍監修や講演活動なども行なっている。1974年生まれ。高松市出身、相模原市在住。
(1)【新連載】「戦国の不死鳥」小田氏治の官名「讃岐守」は本人の希望だったのか (2)「戦国の不死鳥」小田氏治、父の死により18歳で当主になる (3)上杉謙信と小田氏治は本当に戦ったのか?山王堂合戦の真実 (4)上杉謙信と小田氏治が戦った山王堂合戦が〈創作〉された理由 (5)意外に知られていない小田氏治初陣「柄ヶ崎合戦」の真相 (6)小田氏治の父・政治はなぜ、我が子を苦しい戦いに派遣させたのか? (7)小田氏治、19歳で書いた初見文書で見えてくるもの (8)結城家が築城したとされる「海老ヶ島城」は、小田家のものだった? (9)史上最大の決戦「海老ヶ島合戦」前夜、北条氏康の計略と小田氏治の誤算とは? (10)関東を二分する決戦「海老ヶ島合戦」、小田氏治の計略を覆した結城政勝の英断とは? (11)戦国の不死鳥・小田氏治の敗戦処理能力、本拠地小田城を何度も手放した理由は? (12)【戦国の不死鳥・小田氏治】海老ヶ島合戦の運命を分けた敵将の決断力 (13)【戦国の不死鳥・小田氏治】「3つの視点」から考察、なぜ奪われた本拠地をすぐに取り戻せたのか? (14)【戦国の不死鳥・小田氏治】北条氏康、太田資正…激動の関東、各勢力の駆け引き (15)「戦国最弱」小田氏治はどうすれば戦国最強になれたか? (16)戦国最弱の武将・小田氏治は「中務少輔」だったのか? (17)「鮮やかすぎて記録に残らなかった」戦国最弱・小田氏治の数少ない勝利の話 (18)上杉謙信vs戦国最弱武将・小田氏治「どの軍記にも描写されていない」謎の対決の全容 (19)【戦国最弱武将・小田氏治】上杉謙信に奪われた居城の奪還。重なった2つの幸運。 (20)上杉謙信が「降伏した小田氏治の独立」を認めた理由を、関東情勢と戦略的事情から考える (21)戦国最弱武将・小田氏治、居城陥落までの攻防を一次史料から読み解く (22)戦国最弱武将・小田氏治は、なぜ「忠臣」を粛清したのか? (23)戦国最弱武将・小田氏治「連歌の席で城を奪われた?」「長男を人質に出した時期」「正室と側室」

読者からの質問にお答えします

 こんにちは、乃至政彦です。

 今回は、ちょっとした特別企画。

 読者の方から「小田氏治について、これが知りたい」というメッセージをいただいたので、その質問内容と応答をここに示していきたいと思います。

小田氏治の正室と側室について

Q1
小田氏治の二人の奥さんについて教えてほしい。名前は、葉月・稲と聞きました。

 戦国時代の女性の名前は、ほぼ伝わっていない。

 このため、葉月や稲という名前の実否を確認する必要がある。

 この名前は、小丸俊雄『小田氏十五代』(崙書房、1979)に、元亀3年(1572)大晦日の小田城連歌会のこととして『小田城之事条々』の「和歌御事」にある記事を参考に小田城の御所の「中央に天庵が座し、その左右に奥方の葉月御殿、側室の稲姫御殿が並び」とあるのが確かめられる。だが、それより先がわからない。

 ここにある肝心の『小田城之事条々』という史料がどこにあるのか確認できないのだ。

 水戸城主・江戸忠通の娘が氏治の正室となり、その息子が嫡男・小田守治となった(「[校訂刪補]常陸八田家小田氏系図」等)。

 なお、守治の母を「越前中納言秀康卿(ノ)妾」すなわち家康の息子である結城秀康(1574〜1607)の娘とする記録もある(『系図簒要』『小田一流系譜上』等)。だが、守治の側室ならまだしもその実母となると、世代的に起こり得ない。

 だが、先に小田友治を生んだのは小田家臣・芳賀貞利の娘「芳賀局」である(『小田一流系譜 上』に友治の「母ハ家女芳賀喜兵衛貞則ノ女ナリ」、『常陸志料』の「小田氏譜 上」や「[校訂刪補]常陸八田家小田氏系図」に「小田原臣芳賀喜兵衛(=ヱ)貞利女」の子息とされ、他の史料も一致)。

 正室が後から男子を生んだことで、家督の交代が起きたのだ。友治は祖父と共に北条氏康のもとに出仕したので、芳賀局も同行した可能性があるだろう。

 天文17年(1548)1月13日または17日、小田友治誕生。母親は小田家臣・芳賀貞利の娘。

 弘治3年(1557)1月7日、小田守治誕生。母親は水戸城主・江戸忠通。

 ちなみに守治誕生は、氏治の無計画な女性関係が原因などではなく、政治的な判断があってのことと考えるのが妥当だろう。

 これ以上のことは追っていません。

小田友治はいつ北条氏康のもとへ派遣されたか?

Q2
庶子、友治が人質に出されたのはいつでしょうか。弘治3年(1557)、永禄5年(1562)、天正元年(1573)と諸説あります。

 三択問題で即答するなら、北条家への人質(証人)として送られる時期で最適なのは、氏康と同盟を組んだ永禄5年でしょう。その時期なら友治は14歳。適切な年齢です。...