【謙信と信長 目次】
信玄上洛

(1)武田信玄と徳川家康の確執、それぞれの遺恨
(2)上杉謙信の判断、武田信玄の思考を紐解く
(3)甲陽軍鑑に見る、武田信玄の野望と遺言
上杉謙信の前歴
(4)謙信の父・長尾為景の台頭
(5)長尾家の家督は、晴景から景虎へ
(6)上杉謙信と川中島合戦、宗心の憂慮
(7)武田家との和解、二度目の上洛
(8)相越大戦の勃発、長尾景虎が上杉政虎になるまで
(9)根本史料から解く、川中島合戦と上杉政虎
(10)上洛作戦の破綻と将軍の死
(11)足利義昭の登場と臼井城敗戦
(12)上杉景虎の登場
(13)越相同盟の破綻    
織田信長の前歴
(14)弾正忠信秀の台頭・前編 
(15)弾正忠信秀の台頭・後編 
(16)守護代又代・織田信長の尾張統一戦 
(17)桶狭間合戦前夜 
(18)桶狭間合戦
(19)美濃平定前の第一次上洛作戦
(20)第一次上洛作戦の失敗
(21)上洛作戦の成功 
(22)信長が「殿中御掟」で守ろうとしたもの☜最新回
  ・織田信長の野望
  ・「殿中御掟」作成の背景
  ・信長の幕府への思い入れ
  ・現代人にまで忠義を認められない
  ・「殿中御掟」の文章
  ・信長に集まる様々な思い
  ・信長の悩みを示す史料
  ・板挟みに苦しんだ信長
    ・「信長、“京都のこと存知まじく候”」
足利義昭坐像

 前回、織田信長の「殿中御掟」について省略する旨を記したが、考えてみるとこの先触れていくつもりの「信長政権」の性格を見る上で欠かせないことなので、改めて説明することとしたい。

織田信長の野望

 永禄12年(1569)1月14日、織田信長は「殿中御掟」(でんちゅうおんおきて)」を作成した。「殿中御掟」には信長の署名と、これを公認する将軍・足利義昭の袖判(そではん)が押されている。

 旧説は、これを、信長が義昭をコントロールするために作ったものと解釈してきた。義昭を傀儡にして、天下の権を一手に握らんとする野望が露骨に現れたものだとする見方である。

「殿中御掟」作成の背景

 まずは、この頃までに義昭および左右の幕臣たちにあった背景を説明しておこう。

 前年の永禄11年(1568)10月18日、故足利義輝の弟・義昭が征夷大将軍に任じられた。

 織田信長が主催した上洛軍のおかげであった。

 義昭は将軍に就任する直前の同月9日以前より、山城国の寺社から所領安堵を求められていた。寺社勢力は義昭の将軍就任を待つももどかしく、早々に安堵を希求していたのだ。義昭の幕臣たちはこれと並行して相論の裁許も多数、実施している。

 もちろん所領の安堵と相論の裁許は、将軍就任後も繰り返し実行された。

 幕府はその対応に忙殺されていたことが想像される。

 かかる中、永禄12年(1569)1月4日、抵抗勢力が本国寺にいる足利義昭を襲撃する。

 その2日後、義昭ら幕臣はこれを撃退して平和を取り戻す。

 さらにその2日後となる同月6日に、救援に駆けつけた信長が将軍御前まで到着し、8日後の14日、「殿中御掟」を作成したのである。

信長の幕府への思い入

岐阜駅前にある織田信長像 写真/アフロ

 しかし信長は、将軍に就任したばかりの義昭から「副将軍」や「管領代」の役職を受けるよう打診されて断っている。

 もし信長に強い野心があれば、断る道理などないはずである。

 これについて“信長は名誉より実権が欲しかったのだ”と見る向きもあるだろうが、まだ美濃と尾張と北伊勢までしか掌握していない信長が天下に雄飛したいのなら、使えるものはなんでも利用するべきである。

 仮に「副将軍」「管領代」が名誉職の類であったとしても、東国で「関東管領」に就任した上杉輝虎が、大きな動員力を獲得したのは間違いない。

 ならば、信長も将軍の名を借りて畿内周辺の兵を動員する実利は得られるはずである。

 なのに、信長は将軍の提案を受けることなく、早々と美濃へと帰国して、領国経営に専念しようとしている。これは京都の政治に関与する意志がなかったと見ていいだろう。

 しかも翌年正月、抵抗勢力が大軍で将軍の在所を襲撃した際、信長はごくわずかな供回りだけを連れて領国を飛び出し、豪雪のなかを突破するなり、京都へと駆けつけた。

 結果、普通の1.5倍ぐらいの速度で京都に着いた。その間、凍死する従者があり、信長本人も厳寒で寿命の縮む思いをしたはずである。信長が到着すると、敵勢はすでに義昭たち幕府軍によって打ち払われていた。これは将軍にとっても信長にとっても幸いなことだった。もし信長到着まで敵軍が無傷で滞在していたら、数騎程度の兵しか伴っていない信長は、大軍相手にかなりの苦戦を強いられたことだろう。あっさりと戦死させられていたおそれだってあったのである。

 すると、この時の信長は私利私欲なく、命懸けの奉公をしていたと言える。信長は一命を捨ててでも将軍のために尽くすつもりでいたのだ。

 ちなみにこの事件を「本国寺の変」と呼ぶ。「殿中御掟」が作られたのは、この事件からたった数日後のことであった。信長が将軍傀儡など考えていた形跡はどこにもない。

本圀寺 大本堂 写真/アフロ

 その後の3月27日、信長の「中媒」(仲介)により、将軍は自身の妹を本国寺の変で活躍した三好義継のもとへ嫁がせた。将軍外戚の地位を他人に譲るなど、お人好しも甚だしく、このような縁談はかつて足利義輝を滅ぼした「三好政権」の復活に繋がりかねない。それを実行させたと言うことは、つまり信長に幕府の権威を利用するとか、寄生するとかいう私的な欲望がなかった証左となるであろう(ちなみに三好義継はこの4年後に敗死する。享年25)。それどころか信長は、アップデートされた「三好政権」が、新しい幕府を支えることを望んでいたのではないだろうか。

現代人にまで忠義を認められない

 それにしても信長は報われない男である。...