【謙信と信長 目次】
信玄上洛

(1)武田信玄と徳川家康の確執、それぞれの遺恨
(2)上杉謙信の判断、武田信玄の思考を紐解く
(3)甲陽軍鑑に見る、武田信玄の野望と遺言
上杉謙信の前歴
(4)謙信の父・長尾為景の台頭
(5)長尾家の家督は、晴景から景虎へ
(6)上杉謙信と川中島合戦、宗心の憂慮
(7)武田家との和解、二度目の上洛
(8)相越大戦の勃発、長尾景虎が上杉政虎になるまで
(9)根本史料から解く、川中島合戦と上杉政虎
(10)上洛作戦の破綻と将軍の死
(11)足利義昭の登場と臼井城敗戦
(12)上杉景虎の登場
(13)越相同盟の破綻    
織田信長の前歴
(14)弾正忠信秀の台頭・前編 
(15)弾正忠信秀の台頭・後編 ☜最新回
  ・古渡城主・織田信秀
  ・末森城主・織田信秀
  ・大名ではなく大名重臣としての拠点移転
  ・守護代奉行・織田信長の誕生
古渡城跡碑がある名古屋東別院

古渡城主・織田信秀

 天文15年(1546)のことと思われる。織田信秀は、それまで拠点としていた那古野城を嫡男の織田吉法師(信長)に譲り、自身は同国内に築いた古渡(ふるわたり)城を新たな「御居城」とした(『信長公記』[首巻])。信長が正室と結婚する前後なので、13歳の頃と推定される。信長には複数の異母兄弟がいて、織田信広などの庶兄もいたが、嫡男はあくまでも信長であった。

 信秀は36歳の働き盛りにあり、その後も三河の岡崎城を攻め落としたり、斎藤道三と和睦したり、信長と道三娘(濃姫)の縁談を実現させたりして、縦横無尽の活躍を見せていた。

織田信秀像

 この間、一時的ではあるが、信秀は主人である守護代と対立することになる。天文17年(1548)11月頃、尾張守護代である清洲の織田達勝・信友父子に属する軍勢が、信秀のいる古渡城を攻めたのだ。

 谷口克広氏は、達勝の家老である「坂井大膳・坂井甚介・河尻与一」が信秀との和睦に反対したと『信長公記』[首巻]に見えることから、老齢の達勝が重臣たちの意見を抑えられず、両家の関係が悪化したと推測している(『天下人の父・織田信秀』祥伝社新書・2017)。その通りとすれば、信秀から見ると、君臣の関係を裂かんとする奸臣がいたと言うことになる。本来なら彼らを討ち取るべきであるが、信秀は兵を動かさなかった。

 そこで重臣の平手政秀が折衝に当たる。政秀は信長の傅役(もりやく)である。交渉は実を結んで、翌年秋に停戦することができた。信秀は守護代との関係を放棄しなかったのである。

 それにしても元服したばかりだった信長は、政秀が信秀のため苦労して敵方と交渉する様子をどのような心境で眺めていたかは不明だが、決して冷ややかな気持ちではなかっただろう。

 平手政秀は天文22年(1553)、信長が20歳の時に自害して亡くなるが、信長は政秀の菩提を弔うため国内に「政秀寺」というストレートな名前の寺を建てさせている。その後、信長が鷹狩りで得た獲物を政秀に捧げようと語りながら落涙する様子が『信長公記』[首巻]に伝わっている。

 ところで信秀は、この頃からほとんど何の動きも見せなくなった。織田弾正忠家の劣勢も目立ち始める。弾正忠家は、尾張守護代・織田達勝および美濃守護代・斎藤利政の脅威に立ち向かうことを止め、戦争を回避する方針で専念している。

 天文18年(1549)、織田信秀が攻め落とし息子の信広(信長の異母兄)を置いていた三河安祥城を今川軍が攻めたが、信秀は何のリアクションも起こさず、安祥城は同年11月中に今川軍が陥落させた。息子は太原雪斎(たいげんせっさい)の手によって生捕りにされた。織田方は三河から人質として保護していた松平竹千代(徳川家康)を差し出し、信広を解放させる。信秀は息子の窮地に何もできなかったのである。...