【謙信と信長 目次】
信玄上洛

(1)武田信玄と徳川家康の確執、それぞれの遺恨
(2)上杉謙信の判断、武田信玄の思考を紐解く
(3)甲陽軍鑑に見る、武田信玄の野望と遺言
上杉謙信の前歴
(4)謙信の父・長尾為景の台頭
(5)長尾家の家督は、晴景から景虎へ
(6)上杉謙信と川中島合戦、宗心の憂慮
(7)武田家との和解、二度目の上洛
(8)相越大戦の勃発、長尾景虎が上杉政虎になるまで
(9)根本史料から解く、川中島合戦と上杉政虎
(10)上洛作戦の破綻と将軍の死
(11)足利義昭の登場と臼井城敗戦
(12)上杉景虎の登場
(13)越相同盟の破綻    
織田信長の前歴
(14)弾正忠信秀の台頭・前編 
(15)弾正忠信秀の台頭・後編 
(16)守護代又代・織田信長の尾張統一戦 
(17)桶狭間合戦前夜 
(18)桶狭間合戦
(19)美濃平定前の第一次上洛作戦
(20)第一次上洛作戦の失敗 ☜最新回
  ・絵に描いた餅に終わった第一次上洛作戦
  ・織田信長の稲葉山城制圧
  ・第二次上洛作戦の布石
  ・義昭・信長ともに動く
  ・「天下布武」の意味
桑実寺 写真/PIXTA

絵に描いた餅に終わった第一次上洛作戦

 上洛作戦を決行する予定日であるはずの永禄9年(1566)8月22日が過ぎた。しかし信長は近江に進軍することができなかった。

 しかも近江にいた足利義秋たちは、味方であるはずの近江六角承禎方の裏切りを企んでいるという情報を得て同月末近くに若狭へ逃れた。保護したのは守護の武田義統だった。

 翌月の閏8月中に義秋は、美濃の一色龍興方から驚くべき報告を受け取った。細川藤孝が信長のもとまで出向いて、停戦の証として龍興に人質を差し出す約束をさせていたが、信長がこれを反故にして8月29日に美濃国境へ侵攻したというのである。閏8月8日、龍興は尾張軍を追い払った。

斎藤(一色)龍興

 ただ、22日から一週間後の侵攻であることから、織田信長の立場から考えると、これは信長が美濃との約束を破ったというより、何らかの理由により義興が織田軍の美濃通過交渉を期日になっても受け入れず、このため信長も作戦決行を果たすため、やむなく強硬策に出たと考えられる。上洛作戦を主催する立場に置かれ、誰よりも乗り気であった信長が自分から作戦を反故にしてまで美濃を攻める理由はない。

 とはいえ、信長が躊躇なく侵攻したということは、それまで一色龍興に人質を差し出していなかったと見られる。この点は信長が龍興に相当な無理難題(嫡男を指名するなど)を吹っかけられたか、信長が龍興からも人質を出すべきだと求めて対話にならなくなったのではないか。

 なお、信長はこの侵攻を開始する前日、大和の柳生宗厳に「近江(六角承禎)の動きが不安なので、上洛作戦は延期する」と伝えている。

 ともあれ信長は上洛作戦を実現できなかった。

 天下取りの絵図を描いても、それはちょっとしたことで崩れてしまうとても脆い設計図に過ぎなかったのである。

 信長と龍興の敵対も決定的となった。

織田信長の稲葉山城制圧

 足利義秋は、越前朝倉義景の庇護を受けて、その実名を義昭に改めた。今度こそ入洛して将軍にならなければならないと決意を固めていたようだが、肝心の義景も積極的な動きに出られないでいた。そこで義昭は再び織田信長に目をつける。永禄11年(1568)のことである。...