『謙信と信長』について
越後の上杉謙信が、ついに西へ目を向け始めた。その先で待ち受けるのは織田信長である。武田対策として同盟を結んでいた両雄の関係は、信玄亡き後、急速に冷え切っていた。本連載では、謙信と信長の動向を見ながら、それぞれの特徴を比較して、その最終闘争とされる「手取川合戦」の真相を追っていく。

はじめに

 今回から『謙信と信長』をスタートします。

 この連載は、上杉謙信と織田信長の関係を追い、両雄を比較しながら私見を披露していくもので、最終的には軍事衝突とされる天正5年(1577)の加賀手取川合戦の実相を探る予定でいます。

手取川と白山

 謙信と信長は、もともと友好的な同盟関係にありました。これは現在、「濃越同盟」と呼ばれています。謙信は越後を、信長は美濃を本拠地としていたためです。

 同盟の理由のひとつとされるのは、甲斐の武田信玄です。

 侵略的な信玄の存在は、周辺国に強く緊張を強いるものであり、謙信と信長が警戒して相互に監視することで有事に備えるのは、当然のことと言えるでしょう。通説では、武田対策として、結びついたとされています。

 同盟を結んだのは、元亀3年(1572)11月──。

 信長は、謙信が派遣した使者である長景連の眼前で「誓詞」に、「牛王血判」を押印して、年月を移さず「信玄退治」しましょうと誓いました。

 この頃、信玄は信長のもう一つの同盟国である徳川家康の領土に侵攻して、活発な軍事行動を展開していました。圧倒的な戦力差で、徳川領を蹂躙しており、このままだと家康が滅亡するのは必定でした。

 いきなりの本格的侵攻は、信長と家康にとって、まさに青天の霹靂、寝耳に水の出来事と言えるもので、それまで信玄に慇懃な姿勢で接し続けていた信長も、これはさすがに「侍の義理を知らない」ことだと激昂し、信玄との「義絶」を決意しました。

 一方、謙信も信玄との和睦を画策していたのですが、信玄はこれを拒絶するばかりか、飛騨や越中で反上杉派を扇動する始末で、到底仲良くできそうにないと思い知らされました。

 謙信はそれにしても信玄はどうしたのだろうと首を傾げる思いをしていたようです。

 自ら進んで、上杉・織田・徳川を相手取り、全面戦争を開始しているのだから、謙信が疑問に思うのも無理はありません。謙信は、「これではまるで蜂の巣に手を入れるようなもので、馬鹿なことをするものだ」と呆れていました。

 何にしろ、武田がここまで暴走する以上、やってしまうしかありません。

 これで2人は、武田を滅ぼすしかないと思い定めたのです。

 武田信玄ももはや前進する以外の選択肢はないとばかりに、北条との同盟のみを後ろ盾として、その総力を徳川制圧に差し向けます。

 果たして信玄の狙いはいかに?

 初回のテーマは「信玄上洛」として、連載を開始いたします。

武田信玄と徳川家康の確執

 元亀3年(1572)、武田軍が徳川領へ大挙して押し寄せた。驚いている場合ではない。いつかこの日が来ることはわかっていた。家康は武田信玄率いる大軍を打ちはらうべく、覚悟を決めて打って出た。ここに遠江味方原(遠江三方ヶ原)合戦が勃発する。

三方原古戦場(三方原墓園)

 信玄の三河侵攻は、織田信長も上杉謙信も、耳を疑うほどの一大奇襲であった。これまで信玄は、信長と友好関係にあった。信長と家康は長年の盟友である。これでは織田と徳川の両家を敵に回すことになる。それだけならまだしも、信玄は北陸の謙信とも争っている最中であった。これでは背後の関東北条家以外、どこも敵だらけとなってしまう。

 それなのになぜ、信玄は家康を攻めたのだろうか。

 この時、信玄は「三ヶ年の鬱憤を晴らす(※1)」と現地の武将に伝えており、自らの遠征理由を、かねてからの不満にあると公言していた。

※1『戦国遺文 武田氏編』1976号、【原文】「可散三ヶ年之鬱憤候」

 信玄の真意を探るには、3年前から続く鬱憤とやらを見直す必要があるだろう。

 3年前の永禄12年(1569)、駿河から遠江は今川氏真の領国であった。今川から独立した三河の徳川家康はこれと争い続けていた。信玄はまず氏真に「三河を切り取らせよ」と申し出たという(『甲陽軍鑑』[品第39])。もちろん氏真は丁重に断った。すると信玄は、ついでその家康に対今川戦線を張ろうではないかと、共闘を持ちかけた。途方もない領土欲である。

 これが全ての始まりだった。

徳川家康との遺恨

 永禄12年(1569)、信玄は駿河の今川氏真を討滅するため、家康と共闘することにした。両軍はたちまちにして今川領を蹂躙した。

 この作戦は、『三河物語』[第二中]に「甲斐の武田信玄から“家康は川向こうの遠江を取るといい。私は駿河を取るので”と提案された(甲斐の武田信玄と仰合而、“家康は遠江を河切に取給得、我は駿河を取ん”と仰合而)」とあり、信玄による国分け構想をベースとして、共同今川領に攻め込み、その占領分割を果たしたと伝えられている。だが、武田方の記録『甲陽軍鑑』[品第39]によると、家康は「大井川をきりて遠州をば一国」を切り取るつもりだと信玄に伝えていたと言うことになっている。

 しかしその3年後、武田信玄は徳川家康に使者を送ってとんでもないことを言い出した。

 「これから天竜川を切り取らせてもらう。あの時、川から西は貴殿らが、東は我らが制すると告げたが、誰もその川を天竜川とは言っていなかったかもしれない。なのに貴殿らが大井川まで占領したのはまったく納得がいかない」(『三河物語』[第三下])

 3年も経過してからこのような主張をするなど、道理が通らない。常日頃から家臣たちに筋道を立てての思考法を説く理論家の信玄が、そんなこともわからなかったのだろうか。もちろん、そうではない。これはつまり、ほかに攻め入る口実を作れなかったことを意味している。ここから信玄の本心が見えてくる。

 強引拙速な言いがかりは、ほとんど児戯にも劣る。それでも信玄は、今ここで家康を叩いておくべきだと判断して、大軍を乱入させるための言葉を選んだ。

 武田家中に、今こそ我らに勝機があり、刃向かう者は時流を読めぬ愚か者だと見下すほどの自負心が行き渡っていたのだろう。

それぞれの思惑

 この頃までの関係大名たちの思惑を見てみよう。

 注目すべきは徳川家康、織田信長、上杉謙信、足利義昭である。

 まず徳川家康だが、特に目立った動きは見られないが、開戦前から武田家に強い警戒心を抱いていたのは間違いない。

 武田軍侵攻の3年前、元亀元年(1570)8月、家康は上杉謙信と連携して武田対策を考えようとしていた。謙信も家康の提案に飛び付き、両者は同年中に同盟を締結する。その時、謙信は家康に、武田と「手切」れをすること、信長に謙信と「入魂」にするよう意見すること、そして信長と信玄の「縁談之儀も事切」るよう画策することを提案した。家康は謙信の提案に「一々令納得」したと返答しており、完全に信玄を見限っていたとみていいだろう。

 家康がなぜここまで深刻な覚悟を固めたのか決定的な証拠はないが、旧今川領の国分けが原因なのかもしれない。少なくともこの時点で信玄に不信感を持つような出来事があったと考えるのが自然である。そしてその信玄は、三ヶ年の鬱憤を晴らすと言って、元亀3年(1572)、徳川領へ侵攻してきた。

 ついで織田信長である。信長は、自らが擁立した天下の征夷大将軍・足利義昭の補佐役として、戦国の世を終わらせるべく奔走していた。

 信長と義昭は意見違いすることもあったが、信長は京都の将軍を中心とする天下秩序の再構築を安定化させるため奔走していた。ここまで信長は、将軍や幕臣から人質を取らず(むしろ信長が幕府に人質を預けていた)、また自国に囲い込みをすることもなく、ましてや軍事的に抑圧して監視役を置くということもしていなかった。備後から甲斐まで東西の大小名たちに、上洛して将軍に馳走すべしと働きかけており、私利私欲ではなく、中央政権の再建を主眼に動いていたと見ていいだろう。

 信長の軍事行動は、将軍のためという大義名分を繰り返しているが、権威を利用して勢力を広げていたわけではない。もし姑息な口実に使っていたのなら、敵対する者たちはその点を論難して、信長から大義を奪おうとしたはずである。だが、そうした形跡は皆無である。やがて信長は越前の朝倉義景、近江の浅井長政、本願寺などの諸勢力との全面戦争に入り、将軍も彼らを幕府の天下を阻害する者として、信長の肩を持っていた。濃尾の織田家は、京都の幕府と政権の力を補完しあう関係を保っていた。

 そして上杉謙信である。謙信は、関東の北条と甲斐の武田の両家を敵に回しており、さらには武田に扇動された北陸の領主たちや、本願寺方の一揆衆とも争っていた。その最中、信玄が三河に侵攻したと聞いてとても驚き、そして意地悪く高笑いするのだった。

 ちなみに将軍と信長は謙信に対し、北条家および武田家と和睦するよう呼びかけており、謙信も将軍のためならばと応ずる構えでいるところであった。

 最後に京都の将軍・足利義昭である。義昭は、織田信長と上杉謙信を、幕府に忠実な大名と見ていたようだが、信長とは何度も衝突しており、確執を重ねていた。幕臣たちの間で信長に不信感を抱く者もいた。義昭は、織田家と本願寺、および上杉家と北条・武田両家の和睦を取り持つよう動いていたが、交渉は難航していた。

足利義昭像

 この段階では義昭に、どこか特定の勢力(例えば織田家)を滅ぼそうという意思は特になく、各地の私戦を停止させ、純粋に天下を静謐へ導きたいと考えていたようである。しかし、信長が思うようにならず、信長を目の上のたんこぶのように感じ始めていたのだろう。

 かかる中、信玄が織田・徳川への対決姿勢を明らかにした。

信長の激怒、謙信の喜悦

 武田軍は、家康の遠江・三河と、信長の美濃へ侵攻を開始した。特に三河では家康との会戦に勝利し、徳川家を滅亡寸前に追い込む。

 武田軍は、「家康さえ滅ぼせば、信長に100日とかからないだろう(家康さへ滅却仕候はば、信長には百日と手間は取らじ)」と豪語して戦意を高揚させていた(『甲陽軍鑑』[品第39])。男の野望に限りなどない。勝利を重ねて実利を得られる限り、飛躍を求め続けていく。狂気の沙汰だ、傲慢だと罵られようとも、その傲慢を押し通してしまえば、全ては正気の沙汰だったと認められるのである。

 それまで辛抱強く、武田家と仲良くしようと苦慮していた信長は、不意打ち同然の所業に憤った。信玄を「侍の義理を知らない」ようなひどい男で、これで武田家は世間の笑い者になったと吐き捨てて、「当然だが、今後、義絶するつもりである」と謙信に伝えた。そして「もう永遠に仲直りを考えることなどない」とまで言い切った(※2)。これで今後、信長と家康が信玄と共存するルートは消え失せた。

※2『織田信長文書の研究』350号。【原文該当部】「信玄所行、寔前代未聞之無動者、不知侍之義理、只今不顧都鄙之嘲弄次第、無是非題目候、」「永可為義絶事勿論候、」「雖経未来永劫候、再相通間敷候、」

 双方ともに後へと引けない全面戦争が開始されたのである。

 事態を見聞きした謙信は、これが相当面白かったらしい。ここで家臣の河田重親に宛てて、「これで織田信長と徳川家康は、信玄と敵対することになった。信玄は何の工夫もなく、これが運の尽きとなるだろう。これからが正念場だ。信玄の戦略がいい加減だったおかげで、上杉家の武運が若返る瑞兆が開かれた。春のうちに信長・家康と作戦を練り、信玄に冷や汗をかかせてくれる。とてもめでたいことだ」と上機嫌に述べ、さらに追伸で「信玄は蜂の巣に手を突っ込んだようなものだ。無用の騒動を起こしたのである」と辛辣な信玄評を書き送っている(※3)。

※3『上越市史』1130号【原文】「織田信長・徳川家康此度信玄成敵体之事、且無擬、且信玄運之極歟、さりとてハ大事之覚語、信玄怠候、偏当家之弓矢わかやくへき随相ニ候、自春中信長・家康申合、信玄ニ汗をかゝするへく候、定而可為大慶候、」「兎角ニ信玄はちのすに手をさし、無用候事仕出候間、」

 ついに自分だけでなく、幕府の天下を直接支える信長と家康まで敵に回したのだから、信玄は晴れて逆賊となるであろう。謙信にとって愉快でないわけがない。

足利幕府vs.武田信玄

 信玄は三河へ攻めると共に、美濃遠山氏の所領をめぐる問題に介入する形で、信長の勢力圏にも派兵した。これで信玄は、織田・徳川・上杉の三大名と同時に争うこととなった。

 それだけではない。それまで幕府は、上杉家と武田家の講和を仲介しようとしていた。また本願寺と信長の講和に、信玄の協力を求めてもいた。そんな最中、全てを台無しにする信玄の振る舞いは、将軍の顔に泥を塗るのも同然で、信玄は自ら進んで逆賊の仲間入りを選んだことになる。信玄自滅は、ほとんど必定であるかに見えた。

 とはいえ幕府も短慮ではない。武田の実力を侮ることなく、幕臣の上野秀政を派遣して、信玄に翻意を促すことにした。かくして元亀4年(1573)1月7日、秀政は武田の陣中を訪れ、織田・徳川との停戦するよう説得を開始する。

 だが、信玄はこの時を待っていたのだろう。

 同月11日、ここぞとばかりに、織田・徳川の非を鳴らす返書を作らせ、これを秀政の目に入れさせた。

 書状に見える信玄の主張はこうである。

 まず、「信長・家康以下ノ凶徒等」が比叡山を焼き払い、朝廷を軽視して天下を我が物にしていると2人の罪状を申し述べた。そんな2人を放置するなど「仏法・王法破滅ノ相、天魔変化」も同然であるとも述べた。そして、秀政に彼らの「誅殺」を命じてもらいたいと強気の主張を返したのである(『甲陽軍鑑』[品第39])。

 この返書は、使者の上野秀政宛てとなっているが、将軍の手許に届けられたあと、天皇の目にも入れられたことが確かめられている。京都に戻った秀政は、信玄の取次としてこの書状を肯定的に説明したらしい。そこには親織田派の幕臣もいたので、秀政と激しくぶつかり合った。その筆頭が細川藤孝である。

 信玄を織田・徳川と和睦させる使者として派遣されるぐらいであるから、秀政はもともと反織田派ではなかったのだろう。だが、すっかり信玄に懐柔されてしまい、親武田派に染まってしまった。結果、幕臣たちは親織田派と反織田派に二分化されることになってしまった。

 幕府は信長と比叡山・本願寺の対立に心を痛めており、信玄にはそこが狙い目と見えていたのだろう。

 信玄の戦略には癖がある。一点突破の力押しだ。

 針の目ほどの小さな勝機を探し当てると、ここに錐を押し込み、穴を広げる。頃合いが見えてきたら、すかさず金槌を幾度も打ち込み、鉄壁を打ち壊してしまうのだ。そのためなら、どんな犠牲も厭わない。

 こうなれば、完全に信玄の術中だ。

 それまで信長の同志であった将軍は、ここで自らの振る舞いを見直すことになる。

 前回(0)友好な関係だった上杉謙信と織田信長はなぜ、手取川で戦ったのか 

 次回(2)上杉謙信の判断、武田信玄の思考を紐解く 

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