【謙信と信長 目次】
信玄上洛

(1)武田信玄と徳川家康の確執、それぞれの遺恨
(2)上杉謙信の判断、武田信玄の思考を紐解く
(3)甲陽軍鑑に見る、武田信玄の野望と遺言
上杉謙信の前歴
(4)謙信の父・長尾為景の台頭
(5)長尾家の家督は、晴景から景虎へ ☜最新回
  
・「上屋形」を狙う上条定憲
  ・為景の思考
  ・上杉定実の憂鬱
  ・天文の乱勃発
  ・伊達天文の乱
  ・長尾景虎の政権意識

「上屋形」を狙う上条定憲

 ここからは長尾晴景と長尾景虎(上杉謙信)の話になる。まず父の長尾為景に大敵が姿を現す。上条定憲(定兼)と宇佐美定満である。上条定憲は守護上杉定実と同じ上条上杉一族の一員で、この頃、大きな野望に取り憑かれていた形跡がある。

栃尾城跡のふもと、秋葉公園にある上杉謙信像

 

 例えば大永7年(1527)、定憲は佐渡において久知家と羽茂家の紛争を仲介し、出羽でも領主間の和睦を周旋した。このような調停仕事は本来、守護がやるべきものであろう。それをなぜ定憲が実践できたのかというと、彼を次期守護とするための強力な後ろ盾が多数揃っていたからだと思われる。

 定憲のの影には宇佐美定満なる謀将がいた。かつて宇佐美家は為景に一族を皆殺しにされたことがある。こっそり1人だけ落ち延びた少年の成れの果てが定満だ。定憲と定満の望みは一つ、為景の打倒である。為景や謙信と同世紀の慶長4年(1599)成立の『藤戸明神由来』を見ると、ここに中条藤資を「下屋形(守護代)」とし、上条定憲を「上屋形(守護)」とするつもりで下郡の九人衆と挙兵したことが記されている。定憲の狙いと党派の様相を想像できよう。

 彼らは為景政権に強い反発を抱いており、政権交代を狙って、既成事実を積み重ねていた。定憲や定満に求心力を失って久しい守護・定実を擁立する気はない。次の守護は、定憲がなるべきである。下郡衆と定満らは守護の権威は利用するが、為景の傀儡となった定実の存在価値は否定して排除するつもりで活動していたのである。

為景の思考

 上条定憲や宇佐美定満、中条藤資らの考えは、為景の体制を打倒して、自分たちの政権を築くことにあったが、その動機は為景への敵意か、権力への野望のどちらであるにせよ、為景がこの反応をまるで予想していなかったとも考えられない。

 為景は、晴景の箔付けを整え、定実の娘婿とすることで、定実の家督を相続させようとしていたが、ともするとこれは定憲を次期守護に擁立しようとする不満分子を炙り出すことに狙いがあったのかもしれない。

 ともあれ上条定憲は越後中の反為景方を寄せ集め、大軍でもって春日山城へと差し迫った。為景は上郡の三分一原という春日山城と指呼の距離にある湿地帯で迎え撃つ態勢を整えた。為景の軍勢は上条軍より少数だった。天文5年(1536)4月10日、激しい決戦の火蓋が切られた。越後の天下を決める戦いは、定憲の敗北に終わる。寡兵の為景が勝利したのだ。勝因は、上条方の背後を受け持つ部将が裏切りを働いたことにあるという。

 これが為景の調略によるものだとしたら、湿地帯で上条定憲を前面に誘い出し、そこで合図を見せて、裏切りを誘発させたものと推測できる。

 合戦から2週間後の4月24日が、定憲の命日として伝わっている。敗戦後、追い詰められて落命したものであろう。為景は引き続き残党の鎮圧に赴く。その後、内乱が落ち着いたのであろう。為景は同年8月3日に息子の長尾晴景に越後守護・上杉家ではなく、越後守護代・長尾家の家督を相続させ、入道する。ちなみにこの家督相続を天文9年(1540)に比定する論考(※1)もある。

※1 前嶋敏「戦国期越後における長尾晴景の権力形成─伊達時宗丸入嗣問題を通して─」/『日本歴史』第808号・2015年

 その主張は為景が三分一原合戦のあった年次から入道して、紋竹庵張恕と改号しているが、数年後に還俗して天文9年に入道しており、この天文9年の入道のタイミングと、家督の譲状の文面が紋切り型であるにも拘らず、前例のない不自然な言葉に飾られていることに注視して導き出されていて、一定の説得力があるものと認められている。

 また、長尾晴景が為景を引退させて、強引に家督を譲らせたとする内容ともなっている。この説は、晴景の力量を高く評価しているところに特徴があるが、しかし晴景は大永7年(1527)生まれである可能性が高く、たかだか14歳でここまで大それた行動を取れるものがどうかが検証されていない。加えて、為景が天文5年に入道した理由が追求されていない。譲状の為景花押の形状も天文10年とするより5年と見る方が当時の様式から妥当である。

 これらの理由により、為景から晴景への家督相続は、新説よりも従来説の年次に従うべきだと考える。為景は天文5年に家督を譲ったのだ。

 もし為景の狙いが、次期守護を狙う野心家を排除することにあったとすれば、上条定憲が亡くなったことで、晴景を守護上杉家にする必然性がなくなり、不満分子の挑発体制を解いたのだろう。あるいは、抵抗勢力を速やかに落ち着かせるため、晴景を守護上杉の当主とする予定を放棄したのかもしれない。おそらく後者が実態に即していよう。結果として為景と晴景が、定実に養嗣子を迎えさせるという大問題に直面し、後手後手に回る事態に陥っているからである。

 その代わり、次に守護上杉定実の家督を誰に譲るべきかという課題が浮上することになる。

上杉定実の憂鬱

 ここから上杉定実の後継問題が別のステージに入っていく。

 三分一原合戦から2年半後のこと──。...