【謙信と信長 目次】
信玄上洛

(1)武田信玄と徳川家康の確執、それぞれの遺恨
(2)上杉謙信の判断、武田信玄の思考を紐解く
(3)甲陽軍鑑に見る、武田信玄の野望と遺言
上杉謙信の前歴
(4)謙信の父・長尾為景の台頭
(5)長尾家の家督は、晴景から景虎へ
(6)上杉謙信と川中島合戦、宗心の憂慮
(7)武田家との和解、二度目の上洛 ☜最新回
  ・上杉政虎の誕生
  ・甲斐武田家との和談
  ・再度上洛した長尾景虎
  ・足利義輝と近衛前久に取り込まれる

上杉政虎の誕生

 昨年出奔した長尾景虎が復帰して1年足らずの弘治3年(1557)3月、信濃で第三次川中島合戦が勃発した。

 同年正月、景虎は互いに「遺恨」はないものの「佞臣・武田晴信」が信濃の諸士をことごとく滅亡に追いやり、また神社仏塔を破壊するような非道を重ねているので、これを討ち破り、信濃を「静謐」へ導くつもりですと信濃更科八幡宮に立願し、出馬の決意を固めていた。

 同じ頃、対する武田方の調略が善光寺周辺まで及び、さらに軍事行動まで重ねていたことで、一触即発の事態が差し迫った。

 しかし同時期に能登七尾城の畠山義綱・義続父子が援軍を求めてきた。しかも武田の動きに応じようとする景虎が軍勢を催促しても越後下郡の色部勝長が参陣しないなどのトラブルが相次いでいた。義綱には自身の出馬を辞退して「糧米」を輸送するに留めたが、勝長は再三の要請にも応じようとしなかった。

 3月14日、武田晴信が信濃川中島に向けて出馬。4月21日、景虎も善光寺に着陣。両軍は5月末まで対陣してしばらく睨み合った。その後、半ば不発に終わった第二次とは打って変わり、第一次川中島合戦に勝るとも劣らない諸城の取り合いが展開される。しかし景虎が望む旗本同士の決戦に至ることはなかった。

 5月10日、景虎はさらに「義をもって不義を誅する」ことを小菅神社に立願しており、ここに初めて自らの戦いを人々のための正しい戦争であることを公言している。

 8月下旬に信濃「上野原」なる地で両軍の衝突があって、長尾政景が武田軍を撃退した。一定の戦果を誇り、満足したものか景虎は、9月には越後へ帰国する。ここに戦いは終了した。景虎はこの戦いで、飯山城と野尻城を拠点とする北信濃の勢力圏を固めた。

 ここまで景虎は内外に対して、一連の行動が頼まれての援軍であり、これが営利目的の私戦ではなく、義戦であることを強調していた。その成果であろう、外交状況は景虎優位に変じていく。

 将軍・足利義輝が景虎の肩を持ち始めたのだ。義輝は、武田晴信を詰問する使者を甲斐に派遣する。

甲斐武田家との和談

 かねてより武田晴信は将軍から自身を信濃守護に任じてもらうとともに、嫡男・武田義信を「准三管領」格の地位に就かせてもらえるよう工作を進めていた。京都の幕臣たちに金銭と礼状を進上するなどして準備を整えていた

 これに際して、足利義輝は長尾景虎との紛争停止を条件としていたが、先の川中島合戦に至ったため、翌年(1558)3月に使者を派遣した。

 使者は御内書を携えており、その内容は景虎との和議を破ったことを厳しく追求するものだった。また晴信と義信には、北条氏康と今川義元の仲介で長尾方との和睦することも勧めた。それでもまだ信玄は景虎への敵対行動を停止せず、閏6月、来秋の越後侵攻を京都醍醐寺へ宛てて公言していた。しかし、熟考を重ねた信玄はやがて考えを改めていく。...