【謙信と信長 目次】
信玄上洛

(1)武田信玄と徳川家康の確執、それぞれの遺恨
(2)上杉謙信の判断、武田信玄の思考を紐解く
(3)甲陽軍鑑に見る、武田信玄の野望と遺言
上杉謙信の前歴
(4)謙信の父・長尾為景の台頭 ☜最新回​
  越後随一の梟雄・長尾為景
  ・長尾為景の台頭 
  ・長尾晴景の登場

越後随一の梟雄・長尾為景

春日山城から見た風景

 享禄3年(1530)1月21日、上杉謙信は越後の長尾為景の末子として生まれた。ここからは、主人公の1人である謙信の前歴を見ていくが、まずは謙信の父親の事績から追ってみよう。

 長尾為景と言うと、次のフレーズを聞いたことがあるかもしれない。

 ──戦の鬼
 ──越後の狂犬
 ──下克上の代表格

 いずれも不穏な呼び名だが、言い得て妙である。ちなみに「戦の鬼」は新潟大学の井上鋭夫教授(『上杉謙信』人物往来社・1966)が、「越後の狂犬」はゲーム書籍の『信長の野望天翔記事典』(光栄・1995)が、「下克上の代表格」は『戦国大戦』(セガインタラクティブ・2010)というカードシステムゲームがver2.0のアップデート時に名付けたものである。どれも無視できない影響力があって、昨今の為景像を定めているように思う。

 これらの異名は、為景と同時代の古文書──一次史料──による評価がベースになっている。

 具体的には、上杉可諄(かじゅん/顕定)の養子である上杉憲房が、父を討たれたことを恨んで「長尾為景は房能を殺したばかりか重ねて上杉可諄をも亡き者とし、家老として仕えるべき主人2人を滅ぼしたことは天下に比類なき所業である(※1)」と批難した文献である。

(※1)黒田基樹「史料紹介・上杉憲房・憲寛文書集」11号、【原文】「[前略]長尾六郎(為景)非殺民部大輔房能耳、重而可諄(かじゅん/顕定)身体如此之条、為家郎亡両代之主人候事、天下無比類題目候、[後略]」

 それまで長尾一族は、上杉家の重臣としてこれを補佐する役割を代々請け負っていた。だが、為景はこの前例を真正面からひっくり返したことで「天下に比類のない所業」をやった奸賊のように罵倒されたのである。

 また、為景は合戦を好んで繰り返した。その生涯において戦った数はなんと「百余戦」という。それだけ戦意旺盛で、また倒すべき敵が多かったのだ。しかも身内の戦死で打ち沈む上田の長尾一族に対し、「いま多数の者が戦死して、あなたが傷心していると聞いている。

 仕方ないことだが、負け戦でもそのようにはしないものだ。そもそも勝ち戦を嘆くことがあろうか。特に若い者は、将来を考えて祝い事とするべきだ。消沈している場合ではない」と叱咤することもあった(※2)

※2『新潟県史』159号、永正17年比定12月24日付長尾房景宛長尾為景書状【原文】「今度各討死候、依之愁傷之由承候、更雖無余義候、まけいくさにさへ合戦のならひハ左様に不申候、況勝軍之討死ハ努々なけかさる物ニ候、殊わかき人ハ、此末を祝事に候、しやうしんなと候てハ不可然候、[後略]」

 為景はこれほどまでに苛烈で、しかも無数の困難を堂々と乗り越える傑物であった。悪名こそ馳せてはいたが、言い訳めいたことを述べたりはせず、かろうじて次の和歌を残すばかりである。

 蒼海の 有とは知らて 苗代の 水の底にも 蛙なくなり

 これは為景が京都に送った和歌集の巻頭に書かれており、三条大納言を通じて叡覧されたと伝わっている(『長尾系図』『北越軍記』など)。その意味は、「青くて広い海のあるのも知らない蛙が、苗代の水底で鳴いている」というものである。『荘子』第十七秋水篇に見える「井蛙に海を語るべからず。

 彼らは自分の棲むところしか知らないからだ」の一文に通じていよう。要は、蛙を相手に本心を伝えたところで意味がない。井の中の蛙大海を知らず──ということで、貧相な者たちは詳しい事情も知らないで、好き勝手に喚いているものだから捨て置けばいいという諦観をよく表しているものと思う。

長尾為景の台頭

 さてその長尾為景が、越後守護代である長尾家の惣領として家督を相続したのは永正3年(1506)に、父・長尾能景が越中で戦死したのが原因である。能景は越後守護・上杉房能の命令で越中へ遠征したが、進軍途中で退路を断たれ、討ち果たされたのだ。能景享年43歳。為景はまだ21歳の若さであった。

 翌年、理由は定かでないが、守護・房能は若き為景の討伐を企んだ。...