天正6年(1578)、上杉謙信が急死しました。謙信には実子がいませんでしたが、二人の養子がいました。義理の兄である景虎と、義理の弟である景勝です。景虎(北条三郎)は小田原北条家の出身ですが、「越相同盟」の和睦の「証人」として謙信の養子となりました。ある意味では人質です。景勝もまた、過去に謙信が家督を継いだ際、これと争った長尾政景の実子で、謙信の姉の実子、つまり甥にあたります。景虎の正室は、景勝の姉(一説に妹)でした。

 今回は、上杉家のみならず、北条・武田など関東の戦国史に多大な影響を与えた越後の跡目争い「御館の乱」を、上杉景虎(北条三郎)を中心に見ていきたいと思います。(全5回の第1回)

乃至政彦
歴史家。著書に『戦国大変 決断を迫られた武将たち』『謙信越山』(SYNCHRONOUS BOOKS)、『上杉謙信の夢と野望』(KKベストセラーズ)、『平将門と天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)など。書籍監修や講演活動なども行なっている。1974年生まれ。高松市出身、相模原市在住。

上杉景虎の一族

 上杉景虎といえば、小説などで非常に人気があります。三国一の美少年といわれた若き貴公子として破れた人物ですからね。

 しかし、物語と史実は似て非なるもので、共通する部分はもちろんありますが、あくまで別物です。

 これは「映画の登場人物」とそれを「演じる役者」が異なるようなものです。

 アニメキャラクターと声優は同じ声で感情表現など通底するものがありますが、やはり別人です。私としては、「物語の景虎」と「史実の景虎」の両方を好きになっていただければ嬉しいと思います。

 簡単な説明は省きます。戦国時代がどのような時代か、上杉謙信や武田信玄がどのような人物かは、大まかな知識で十分です。

 ドラマや小説、既存の本からは得られない景虎の人物像を、史料をもとに掘り下げてみます。

 基本的な内容で、少し詳しい方なら「もう知っている」と思うこともお話ししますが、逆にすべては語れませんので、「なぜこれを語ってくれなかった」と思われることもあるかもしれません。何卒ご容赦ください。

 さて、今回は特に以下の点について述べたいと思います。

・謙信の後継構想はどのようなものだったか?
・謙信と景虎、景勝の関係は?
・景虎は、実父・氏康ならびに氏政・氏照・氏邦など偉大な兄たちに比べて、流されるまま運命を受け入れる柔弱な若者だったか?

 まず、景虎の一族を見てみましょう。

【最新の研究に基づく北条氏康の息子たち】

氏親(新九郎。1537-1552):氏康の長男でしたが早世しました。
氏政(1532-1590):次男でしたが、永禄三年(1560)に家督を譲られました(『戦国遺文後北条氏編』702号文書、永禄四年に「去年息氏政譲渡位」と氏康が記しています)。
氏照(1537-1590):永禄2年に武蔵滝山城主・大石氏の家督を譲られ、大石源三氏照と名乗りました。豊臣秀吉に小田原が開城した後、自害しました。
氏邦(1544-1597):藤田氏の家督を継承しました。永禄11年(1568)より鉢形城主です。
氏規(1540-1600):永禄12年(1568)に韮山城で武田軍に勝利しています。
氏忠(1556?-1593):六郎。北条氏堯の子で、氏康の養子となりました。天正14年(1586)に下野佐野氏の家督を継承し、唐沢山城主となりました。佐野氏に入るとき、伊豆・相模の北条家臣を連れています。
氏光(15??-1590):四郎。氏忠の実弟で、元亀2年(1571)頃から小机城主です。
景虎(1554-1579):三郎。北条宗哲の婿養子、上杉謙信の養子となりました。母は重臣遠山康光の妹です。早世した長兄氏親を含めれば、七男ではなく八男となります。Theeighthprince.
蔵春院殿(早川殿:今川氏真室)
浄光院殿(足利義氏室)
桂林院殿(武田勝頼室)
長林院殿(太田氏資室)
円妙院殿(未詳)
新光院殿(七曲殿:北条氏繁室)
法号未詳(尾崎殿:千葉親胤室)

〈上杉景虎の家族〉
実父:北条氏康
実母:遠山康光の妹
義父:上杉謙信(長尾景虎。1530-1578)
義母:仙洞院(謙信の姉。1524?-1609)
義弟:上杉景勝(長尾顕景。1555-1623)
前妻:妙徳院(遠山康光の女子。二人の間に女子ありと伝わります)
後妻:華渓院(北条家では清心院。長尾政景の女子で、景勝の妹といわれますが、初期文献では「姉」と記録されることが多い。生年未詳-1579)
長男:道満丸(1571-1579)
次男:源桃童子(生年未詳-1579)
女子:環迎童女(生年未詳-1579)

(主要参考文献:黒田基樹・浅倉直美編『北条氏康の子供たち』宮帯出版社、2015年。今福匡『上杉景虎』宮帯出版社、2011年、伊東潤・乃至政彦『関東戦国史と御館の乱』)

景虎は八男

 景虎はタイトルでは「七男」としましたが、実際には「八男」です。なぜこのような相違があるのでしょうか。実は、氏康の長男とされる氏政には、ひとり兄がいました。氏康から家督を譲られるはずの立場でしたが、早死にしてしまったため、忘れられてカウントされていないことが近年明らかになりました。...