
『謙信越山』著者・乃至政彦が挑む「御館の乱」と「上杉景虎」。上杉家のみならず、北条・武田など関東の戦国史に多大な影響を与えた越後の跡目争いを上杉景虎(北条三郎)を中心に見ていく(全5回の第2回)
今回は戦国時代の外交関係を追いながら、景虎誕生の背景を解説する。
歴史家。著書に『戦国大変 決断を迫られた武将たち』『謙信越山』(SYNCHRONOUS BOOKS)、『上杉謙信の夢と野望』(KKベストセラーズ)、『平将門と天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)など。書籍監修や講演活動なども行なっている。1974年生まれ。高松市出身、相模原市在住。
三国同盟の成立
天文21年(1552)11月:今川義元の娘が武田信玄の嫡男・義信に嫁ぎます。
天文23年(1545)7月:北条氏康の娘が今川義元の嫡男・氏真に嫁ぎます。
同年12月:武田信玄の娘が北条氏康の嫡男・氏政に嫁ぎます。
こうして今川・武田・北条は「三国同盟」を結びます。彼らは互いの力量を認め合い、利害関係が一致することから、婚姻関係を通して軍事同盟を締結しました。三国同盟は10年以上順調に機能しますが、あるとき暗雲が立ち込めます。きっかけは織田信長と上杉謙信です。次に「揺らぐ三国同盟」を見てみましょう。
揺らぐ三国同盟
永禄3年(1560)5月:今川義元が尾張で戦死し、氏真が跡目を継ぎます。
永禄4年(1561)9月:信玄と義信が川中島合戦で相論します(『上杉家御年譜』等)。
川中島合戦で、信玄は長男の武田義信から作戦の失敗を大声で非難されたと伝わります。義信は今川義元の娘を正室としていました。二人の重大な確執はこのときから生まれたようです。さらに、この戦いで信玄は多数の親類と重臣を失っています。仲裁役になりうる人材も足りなくなってしまったのかもしれません。
次に、「武田・織田・徳川同盟の画策と甲駿手切」を見てみましょう。
武田・織田・徳川同盟の画策と甲駿手切
永禄8年(1565)9月:織田信長から武田信玄に同盟の動きがあります。
信玄は三国同盟で自分だけが損をしているのではないかと考え直したのか、強い越後に進出するよりも弱体化した駿河に進出するほうが良策だと判断したようです。今川派であった義信とも不仲です。そこに織田信長から同盟の打診がやってきます。
一方、北条氏康・氏政の父子は、謙信侵攻の大乱による領主の離反や領民の逃亡に悩まされていましたが、着実に力を取り戻していきます。勢力を回復する北条とそれを支える武田、そこに苛立つ上杉。「関東三国志」と呼ばれる泥沼の抗争はまだ始まったばかりでした。
永禄8年(1565)10月:武田信玄と義信を不仲にするための謀略を企てたため、傅役の飯富虎昌が処刑されます。
同年11月:武田信玄の子・勝頼のもとへ信長の養女が嫁いだとされます(『甲陽軍鑑』)。
永禄9年(1566)10月:武田義信が自害します。翌月、正室は氏真の要請により駿河に帰国します。
永禄10年(1567)6月:今川氏真が、武田領へ塩を送ろうとする商人を討ち取った秦野城の大藤式部少輔を賞します。
永禄11年(1568)2月:織田信長の仲介により、武田信玄と徳川家康が同盟を結びます。
同年4月:今川氏真が上杉謙信との同盟を画策します。
同年6月:武田へ塩を密輸した商人が斬られます。
同年12月:武田信玄が駿河の今川氏真を攻めます。北条は今川の援軍に向かいます。北条は上杉謙信と和睦し、ともに信玄を攻めるよう打診します。
さて、北条領国の武蔵に、小机城という城があります。
氏康の子、北条三郎は小机城主・宗哲(幻庵)の娘婿となり、城主に据えられました。
しかし、三郎はこのまま城主として落ち着くことはありませんでした。
なぜなら、三郎を必要とする動乱がやってきたからです。
ここで「小机城と北条氏」を見てみましょう。
小机城と北条氏

天文11年(1542):城を管理する北条為昌(氏綱の三男)が死去すると、氏綱の末弟・宗哲(幻庵)が居城としました。...