・はじめに
・【序章】軍隊行進だった大名行列 ☜最新回
・近世の⼤名⾏列
・大名行列の起源
・中世の「領主別編成」と近世の「兵科別編成」
・「領主別編成」と「兵科別編成」は併存していた
(図1)は徳川時代の平和を象徴する⼤名⾏列の図である。
徳川幕府は中世以来打ち続く国内の紛争を克服し、武家社会による⻑期の安定政権を築いた。被⽀配層の百姓万民は天下泰平を享受するかわりに、唯⼀武⼒を有する武⼠層を上位権⼒として認め、⾝分の違いを受け⼊れ、かつ公的に敬意を表する必要があった。
⼤名に参勤交代などの公⽤があって遠⽅へと出向くとき、⼤名と供回りを警護する大仰な列がなされた。⼈々はそのたびに好奇⼼と警戒⼼を刺激された。
われわれが時代劇や博物館でよく⽬にする⾏列像は、服装を正した武⼠たちが駕籠に乗った殿様をお守りする威圧的で儀礼的なものが多い。このため、⼤名⾏列は単なる⾝分確認の⽂化習俗と⾒る⼈も多いだろう。
だが武⼠の⾏列は、戦闘を前提とした戦列縦隊でもあった類例は海外の軍隊にも存在する。インターネットで「戦列歩兵」を動画検索すれば、海外の戦列隊形がいくつも⾒られる。⼤名⾏列の⽤兵思想もこれと通底するのである。
想像してみよう。海外の戦列歩兵と⽇本の⼤名⾏列が地平線から互いの姿を視認したときどうなるだろうか。そして、彼らが敵同⼠だったとき、何が起きるだろうか──。
まず両者は、旗の先導と楽器のリズムに合わせて前進しながら、鉄炮隊が銃撃の⽤意をするだろう。⼤名⾏列は、そのほとんどが最前列に⽕器を並べている。
彼らは、あまり命中精度の⾼くない銃撃を緩やかに繰り返し、前進する。背後には次の段階に備えた味⽅の歩兵が迫っているので、前に進むほかにない。
上官(奉行)も逃亡者が出ないように、⻑⼑(薙⼑)などのポールウェポンを⼿にして、歩兵たちの進退を厳しく管理する。
鉄炮が繰り返し銃撃を続ければやがてむせるような⽩煙が視界を遮ってくる。ここで武⼠古来のメインウェポンがあらわれる。鉄炮の背後に、命中精度の⾼い⼸侍たちが控えているのだ。
海外の近世軍隊には⼸隊の存在が希薄だが、武⼠の軍隊には⽋かせない主⼒兵科とされていた⼤名⾏列は実戦を念頭に置いた配置であるとともに、武⼠のアイデンティティを誇⽰するものでもあった。
そして相⼿の顔が視認できるほど近づくと、海外の戦列は、鉄炮を⼑槍のように⾝構えて突進を開始する。いわゆる銃剣突撃である。海外ではそれで敵味⽅の優劣が定まり、勝敗が決したといわれている。
しかし⽇本の武⼠は違っていた。⼸の次に控える⻑柄の鑓衆が穂先を並べ、敵の前進を阻むことを⽬的として⼀⻫に突進するのだ。織⽥信⻑の⻑柄鑓は6メートルほどもあった。銃剣が勝つか、それとも⻑柄鑓がこれを押さえ込むか──。
中世の武⼠は野戦(遭遇戦)を「野合いの戦」と呼んでいる。武⼠の移動は横列が好まれた海外の戦列歩兵と異なり、縦列が基本であった。
⽇本の国⼟は、71・8パーセントが⼭地と丘陵地に占められていて、平野の⽐率はとても⼩さい。すると軍隊は広野ではなく、既存の道を使って進むことになる。
道先で敵勢を視認すれば、進退可能な広野に移動する。そこで先端同⼠が衝突することが多かった。このため、⽇本では縦列の隊形が発達した。「儀仗(形式)」の⾏列とみられている⼤名⾏列は、「兵仗(軍用)」の行列だったのだ。
近世の⼤名⾏列
近世の⼤名⾏列を通説に沿って説明してみよう。
参勤交代以外にも、改易(領⼟の没収)にともなう城請取や移封など、⼤名(藩主)が公⽤で⼤規模移動する際に⼤名⾏列がなされた。その様式は幕府による規定や⼤名ごとに異なる慣習があるが、⼈数や備品はもともと⼀定度の共通する法則性があった。
⾏列の典型である参勤交代の「参勤」は、中国で諸侯が皇帝に拝謁することを「参覲」の礼と呼んでいたのに由来する(近世史料ではそのまま「参覲」と記す例も多い)。ここから服属儀礼としての側⾯が ⾊濃いのは事実と認められる。
参勤交代は徳川幕府の⾸都・江⼾に諸国の⼤名たちを「参勤」させ、また別の⼤名が参勤すれば「交代」して下国する慣例を繰り返させるものであった。
これは慶⻑8年(1603)頃より江⼾に邸を置く⼤名が、家⾂の家族をも居住させたことに始まり、慶⻑14年(1609)には、まだ法度が⽣まれる前から⻄国・北陸からも江⼾と国許を往来する例が現れた。⼤名とその家⾂たちは、遠路はるばる江⼾と⼤名地元の城下町を往復するので、遠⽅の⼤名にとっては大きな負担になった。
これについては三上参次⽒が「道中に⾦を散ぜしめて諸侯の⼒を殺そぎ」(三上1943)と⽰して以来、幕府が⼤名の財政を圧迫することで、反乱を企らむような余⼒を奪っていたとする解釈が定説とされている。
確かに⾼価な⾐装を整えた⼤⼈数が、⻑距離間を移動すれば、負担は計り知れない。武⼠の⾯⽬が問われる⼀⼤⾏事であるから、その出費も巨額になる。参勤交代で苦しい台所事情を抱える⼤名はたくさんいて、幕府も問題視するほどであった。
例えば徳川家光の時代、加賀藩前⽥家は4000⼈もの⼈数を14⽇かけて江⼾へと参勤した。これほどの⼈数を⽚道2週間、格式張って移動させれば、その負担が⼤であることは想像に難くない。確かに彼らは参勤に多⼤な費⽤を使い、佐 ⽵義宣も「際限なき⾟労」と悲鳴をあげている(⼭⼝1974)。
しかしその⼀⽅で諸⼤名は委縮するどころかその豪奢さを競いあっているところがあり、「⼒を殺」ぐことばかりが重視されていたとは思われないのである。例証として⼤名⾏列における「斬り捨て御免」の事例を掲げてみよう。
武⼠の⾏列に接する庶⺠は、しばしば不条理な暴⼒を受けた。もし⽬の前を将軍や御三家が通ることになれば、最後尾が通過するまで、道の脇で「⼟下座」しなければならなかった。
あるとき駿河国で、明⽯藩主・松平直明の⾏列前をひとりの娘が横切った。彼⼥はすぐ先導に捕まった。報告を受けた家⽼は「⽝だ。捨てて置け」と答えて、なかったことにしようとした。だが、運悪く 真相が殿様の⽿に入ってしまい、その場で斬殺された。
ほかにも鍋島藩で⾝重の⼥性が⾏列を前に姿勢を変えられずにいたので、「頭 が⾼ い」と⼿討ちにされた。また、明⽯藩主が尾張藩領を通過するとき、農⺠の⼦が⾏列前を横切ったため、殺害されている。
幕末で有名なものに「⽣⻨事件」もある。薩摩藩の⾏列を⾺上から 眺めるイギリス⼈4名が、先導から「脇によけろ」と指⽰されても理解できず、列を乱した科により斬られた。⾏列前を横切れば、それが誰であろうと(⽼若男⼥から外国⼈まで)事情を問わず、無礼討ちにする厳粛な⾏軍── それが近世の⼤名⾏列だった。
もし⼤名財政の圧迫、つまり⼤名の弱体化を⽬的とするものだったら、幕府はまず斬り捨て御免の習俗からやめさせるべきだっただろう。
斬り捨て御免は、地⽅の⼤名たちに「我らは⾃⼰判断による武⼒⾏使が可能な存在だ」との思いを強めさせる恐れがある。幕府が本⼼から⼤名を⼼服させたいのなら、彼らが特権的な戦⼠階級であることを忘れさせ、腑抜けの集団にさせる⽅がよい。そのためには、⼤名⾏列の武装を禁⽌するのが合理的ではないだろうか。
参勤交代やその他⼤名の⾏列は、いずれも旗・鉄炮・⼸・⻑柄鑓・ ⾺上の兵科を並べることが習慣化されていた。だが、幕府が⾏列の武装を禁⽌したり、抑制したりする法令を出すことはなかった。
徳川幕府が確⽴した元和元年(1615)の「武家諸法度」には 「京都で騎⾺20騎以上が集まってはならない」と記されているが、もし⼤名を無⼒化したいならこのように武装の制限を強めればよかったはずである。だが、先の禁令は寛永6年(1629)の武家諸法度改正で削除されてしまっている。
なお享保の改⾰(1716~45)で、幕府は⼤名の出費を抑えるため、参勤交代の緩和を検討した。安政年間(1854~60)の幕末にも緩和を検討している。
ところで幕府が本当に、労⼒と財⼒の浪費を主⽬的としていたなら、地⽅⼤名もその真意を⾒抜き、より強く反発したはずだが、そのような形跡は何も残っていない。
事によっては、参勤交代の制度を逆⽤することもできただろう。例えば⼤名同⼠で⽰し合わして江⼾城の攻囲を企むという共謀の恐れとてありえたかも知れない。幕府も当然そうした事態を想定して、対策を練っておく必要がある。
そのためには⼤名⾏列が武器(戦争の⽤具)を持つことに制限をかけるしかない。華美な装飾品(楽器や旗など)の所持を盛んにさせ、サーカス集団のごとき曲芸の推奨をしておくのが望ましかった。
徳川以前の歴史に前例がないわけではない。例えば律令制下の⽇本 (7世紀~10世紀ごろ)では、官軍以外の者が武器や道具を所持して隊を構成することが固く禁じられていた。
戦国時代には、京都で催された織⽥信⻑の天覧御⾺揃え (1581)が興味深い。朝廷に害意がないことを⽰すため、その⾏列には鉄炮が持ち込まれていないのだ。また、豊⾂秀吉は⼑狩り(1588)と称して、百姓の武装に厳しく制限をかけることを図った。
この歴史的⽂脈で徳川幕府が、⼤名諸藩がいつでも開戦可能な態勢で移動することに無頓着だとは考えにくい。被⽀配層の武装を好む権⼒は古今に例がないからである。
このように幕府が⼤名の圧迫と服属を⽬的として、巨⼤な⾏列を習慣化させたとする通説には強い疑問が残る。消耗させたいだけならほかにも⼿はあったはずである。
例えば、⼤名が家⾂と従者を国許から江⼾まで⼀度に⼤⼈数で移動させるのではなく、役割ごとに⼈を動かして、段階的に移動させるほうが幕府にと安全であり、⼤名の反逆⾏為を回避するのに都合がよかっただろう。
実際に複数の⽀藩を持つ⼤名は「御先⽴」「御供⽴」「御跡⽴」と分散参府するところもあった(例えば延宝8年[1680]の弘前藩は偶数⽉に参勤する組と、奇数⽉に帰国する組が交代を繰り返した)。だが、幕府はこれを通例としなかった。
この事実が幕府が⼤名に⾏列移動を求めた理由の答えになるだろう。つまり幕府は⼤名⾏列を通して、軍役厳守の継続を求めたのである。徳川時代は、今でこそ「天下泰平」を謳われ、安定した政権を維持した平和な時代だったと評価されている。
それは確かに事実であった。だが、当時を⽣きた⼈々はいつこの平和が乱れるかしばしば不安に陥っていたのではないだろうか。
近世前期は内外に軍事的緊張が満ちていた。中国では1644年、清国によって明国が滅ぼされた。⽇本の辺境では琉球やアイヌとの対⽴・紛争が続いていた。
キリスト教徒による島原の乱(1637~38)には、⽇本中が驚かされた。由井 正雪の乱(1651)といった浪⼈衆による政変運動、危険分⼦とされる⼤名の改易もあった。
幕府としては、いつどこで不穏な事態が発⽣しても、それが⼤規模化しないため細⼼の注意を払い続けていたはずである。
近世の平和は幕府の努⼒によって守られていた。そのためには何より⼩さな⽕種を瞬時に消し潰す武⼒が不可⽋であった。
江⼾から遠く離れた地での戦乱を抑⽌するには、地⽅⼤名の軍事⼒が必要だった。⾜利幕府の時代、地⽅の反乱は現地諸国の軍勢によって鎮められていた。
だが、機能不全で⽴ち⾏かなくなり、戦国時代の到来を許してしまう。鎌倉幕府から⾜利幕府まで武⼠の軍事体制はすべて現地対応の原則に応⽤を加える形で運⽤されている。豊⾂時代の朝鮮出兵でもその主⼒は現地に近い⻄⽇本の⼤名軍が中⼼とされていた。
戦場の現地・近辺を中⼼に対応を図るのが軍制の原則であり、徳川時代も⼤差 なかったのである。
⽇本の軍隊と戦争の歴史を鑑みれば、徳川幕府が⼤名⾏列を儀仗 (祭礼などの⾮武装⾏列)ではなく、兵仗(戦争⽤の隊列)であることを要請していたからこそ厳粛で、⼀⾒理不尽な無礼討ちも容認されていたと考えられる。
⼤名⾏列は、圧迫⽬的の服属⾏事とするよりも、軍事政権への参加要請から⾏われていたと考えるほうがその実態を把握しやすいだろう。
大名行列の起源
参勤交代は平和が続くうち、⽂化的な⾏事⾊を強深めていった。例えば⾏列を に賑やかにするため、正規の武⼠ではなく輸送業者から雇い⼊れた⼈⾜を混ぜ⼊れ(具⾜や弁当を持った)、通⽇雇として雇われた先導役の奴⼆⼈が、互いの⽑鑓を投げ合うパフォーマンスをする景観も有名である(奴振り)。
⾏列の配置は、幕府・諸藩のあいだで定められた厳格な作法と、⼤名ごとの伝統的な習慣に基づいており、諸藩に内訳を詳細に記す設定図が残されている。その様式はさまざまで、ほぼ⽂字のみで配置が記された参勤図、イラストにされた⾏列図、または調度品として屏風に描かれたものまである。
これらは現在の学術⽤語や、当時の⼈々が名付けた通称がバラバラで、地域や時代を超えた研究を⾏う環境が整っているとは⾔い難い。
さらに徳川後期にもなると、⾏列配置を明記する史料の様式と⽅法が 諸藩で異なっていくので、その共通項や差異を⾒出し、包括的にカテゴリ分けすることも容易ではない。
だが実のところ、時代を超えて⾒直せば、その源流を探し出すのは意外と簡単である。戦国時代から豊⾂時代にあらわれた軍勢配置図「陣⽴書」である。
陣⽴書には、2種類の様式が存在した。全隊の陣⽴書と、単隊の陣⽴書である。全隊の陣⽴書は、豊⾂秀吉の軍隊がよく⽤いていた。最古のものでは、⼩ 牧・⻑久⼿合戦のときのものが有名である(図2)
単隊の陣⽴書では、元和5年(1619)6⽉の 福島正則 改易に伴う安芸国広島城受取りに⽤された⽑利秀元・⽑利秀就の陣⽴書が典型である(図3)。
⼤名⾏列の配置設計図は、地形を指定するものではないことから、 両者のうち複数の⼤名が集まった前者ではなく、1個の⼤名だけで構成された後者の単隊陣⽴書に近いといえる。参勤交代の典型類例として、次に⼭本博⽂⽒が紹介する秋⽥藩の参勤交代⾏列構成資料(図4)を提⽰しよう(⼭本1998)。
秋⽥藩の⾏列半ば後半に「御駕籠」とあるのが、「⽑利秀元陣⽴書」の後半部にある「⾺」に相当する。総⼤将つまり⼤名の配置である近世の⼤名⾏列は⼤名が引き連れる旗本本隊の陣⽴書と同脈である武⼠が敵地── すなわち戦場── に赴くときに使う戦列、それが参勤交代の前⾝として存在したのである。
近世武⼠の儀仗⾏列とされる⼤名⾏列は、その源流をたどれば、兵杖を根本においた戦闘隊列の配置を受け継いでいたのである。
中世の「領主別編成」と近世の「兵科別編成」
ところで戦国時代の軍隊にはひとつのイノベーションがある。それは「領主別編成」から「兵科別編成」への移⾏である。
中世の武⼠による合戦は、私的な中⼩規模の領主が寄り集まり、これらが連合して、敵勢に乱闘を仕掛けるといった戦闘が主流であった。
諸隊はいずれも⾃分の領⼟から⾃分の軍隊を連れて、これを独⾃の判断で進退させていた。中世の合戦は、中⼩規模の武装勢⼒── それぞれ⾃分の所領を持つ 「⼀所懸命」の武⼠たちが私的な従者(郎党)を引き連れる「⼈数」 ── が、その場限りの主催者の側に「味⽅」として参戦する⼀過性のイベントであった。
イベントであるから参加の判断は⾃由である。敵⽅につくことだってかまわない。そこに絶対的な主君や上官はなく、「頼りない」「⼤義がない」と思ったら、⾃⼰責任で戦場を離脱したり、最悪の場合にはその場で敵⽅に寝返ることすらあった。
彼らは私領の私兵を連れているだけの独⽴的領主だからそれができたのであ る。
領主たちは⾃分の戦いやすい武⼒編成で兵を連れていた。彼らが合戦のたびに構成を変えていたことは容易に想像されよう。従者のひとりが病気であれば、誰かを雇ってこれを⽳埋めするかもしれない。⽳埋めしないかも知れない。
中世の合戦はどういう武装、どれだけの⼈数で参加しようともかまわない。武⼠は基本的に⾃主独⽴の存在である。誰かから「必ず⼸五⼈、旗⼆⼈、⾺上⼆騎で参陣しなければならない」などと指図される謂れはない。すべてはおのれの思うまま。
合戦主催者の陣営に領主たちがどんな 兵科でどれほどの頭数を連れてくるかは、そのときになってみないとわからないのが中世の武⼒編成だった。
このような状況で、これら⾃由な武装勢⼒を、利害調整や信賞必罰もってうまく束ねること(それこそ源頼朝や⾜利尊⽒のように、利害調整や信賞必罰による人身収攬に秀でた者)、それこそが名将の第1条件だった。
これら中世の武⼒編成は、その主体が領主にあるのは疑いのないところである。それゆえこの時代の武⼒編成は、領主別編成と呼ばれている。
それが徳川時代になると、私領を有する「領主」という存在は希薄化する。この時代、⼤名の所領は私有地ではなくなっているからである。幕府の考え次第で、転封や改易が⾔い渡されることもあった。
その家⾂もまた、基本的には⼤名から俸禄をもらう⽴場であり、私有地を所有するわけではなかったからである。そこで武⼒編成の主流となるのが兵科であった。
旗・⼸・鉄 炮・鑓(⻑柄)・騎⾺が定数によって揃えられた「兵科別編成」である。⼤名⾏列を構成する武装と⼈数は、⼤名の意向によってその内訳がきれいに整えられていた。
しかし兵科別編成は徳川時代の発明ではなく、戦国時代の発明である。どうしてこのような変化が起こったのかは、中近世移⾏期の軍隊研究が進んだことで、ある程度わかってきた。
簡単にいうと、武⼒編成のインパクトとなる特異点があったのである。
中世と近世の狭間にあたる戦国時代に、⼤名権⼒の集中、鉄炮の伝来と浸透、歩兵の増強があり、新しい時代の軍隊と戦争を模索する者だけが勝ち残っていく。その結果、戦闘の主体が個⼈戦から組織戦へと移り変わり、軍隊の編成は領主から兵科を重視する形態へと改められていった。いいかえれば、「中世の領主別編成」から「近世の兵科別編成」である。
「領主別編成」と「兵科別編成」は併存していた
だが、領主別編成と兵科別編成は、実のところ明確にわかれているわけではない。
中世の史料をよくみると── 考えてみれば当たり前の話だが── 領主別編成が主流だったはずの時代にも兵科別編成の武⼒編成が意識されていた事実が認められる。
領主別編成の軍勢は、合戦というイベントに向かうため、臨時に集められた軍事⼒である。いわば、多国籍の連合軍が⼀時的に結束しているに過ぎない。
しかし兵科別編成の軍隊は常設されたトップダウン式の組織である。この両者が併存したのである。
領主別編成の時代にも、兵科別編成は普通に⾏われていたのである。無論、それは総⼤将が領主が連れてきた私兵を召し上げ、再配分す るといった形ではない。
領主の連れる私兵⾃体が単独で兵科別の形で 編成されていたのである。⼩中規模の領主たちは、⾃分の⼿勢だけで⼀個の武装勢⼒として戦 える兵科別編成の形態をもいたのだ。つまり領主別編成と兵科別 編成は違うといえば違うが、同じといえば同じなのである。
中世の武⼠たちは原則として、⾃分だけの単隊で戦闘⾏動をとっていた。⼤規模な合戦はそういう個⼈集団がたくさん寄り集まるものに過ぎなかった。
このため、⼀個の部隊(領主と従者の私兵集団)が全員、⼸歩兵だけ、または鑓だけで集まるようなことはありえない。例えば事件現場にテレビの報道スタッフが出向くとき、カメラマンばかりが三⼈揃って向かうことはありえない。照明と取材する記者がセットで向かうだろう。
武⼠の軍隊も同じである。たとえどんなに⼩さな領主の軍隊(三⼈、四⼈程度)であろうと、彼らは⾃分の集団だけで戦闘可能な編成を整える。武⼠は戦争のプロである。素⼈と同じ格好をしていては、晴れ舞台の合戦イベントに加えてすらもらえない。⾺に騎乗し、武器と甲冑を揃え、お供を連れて、戦場に赴く。
それが中世武⼠の決まりごとであった。それゆえ、そこには必ず騎兵と、それをとりまく歩兵がいなければならなかった。そして、その歩兵には楯兵と騎兵の補助といった分類が、自ずから整っていたのである。すると、領主別編成と兵科別編成は、権⼒から武⼒編成を捉えた分類ということになるだろう。
したがってこの⼆区分は論点によって無効であったり、有効であったりするといわなければならない。この認 識を踏まえた上で、次章では領主別編成から兵科別編成への移⾏を⾒ていきたい。
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