『戦う大名行列』web版 目次
はじめに
【序章】軍隊行進だった大名行列
【第1章】領主別編成と兵科別編成
【第2章】中世初期の兵科別編成
【第3章】村上義清から生まれた戦列
【第4章】京都を訪ねた兵杖行列── 越後の隊列
【第5章】謙信の軍列── 車懸りの真相
【第6章】武田軍の隊形── 模範的軍隊の創出
【第7章】北条軍の隊形── 岩付衆諸奉行のチャレンジ
【第8章】上杉三郎景⻁の軍師
【第9章】織田信⻑と明智光秀の「戦争」
【第10章】武田家遺臣と蒲生氏郷の陣立書 ☜最新回
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羽柴秀吉の台頭
  ・信⻑の衣鉢を継ぐ
  ・豊臣軍の小田原征伐と蒲生氏郷
  ・小田原征伐における蒲生氏郷の武勇
  ・氏郷の知行地急増対策
  ・蒲生氏郷の軍法
  ・蒲生氏郷の陣立書
  ・陣立の心臓部
  ・陣立の実用
  ・その後の会津

羽柴秀吉の台頭

 織田信⻑が本能寺に斃れ、羽柴秀吉が山崎・天王寺合戦で仇討ちに成功すると、雲行きが変わっていく。

 秀吉に異を唱える柴田勝家が対立姿勢を明らかにしたのだ。織田家中を二分する大乱を巻き起こし、ついには軍事衝突へと至る。天正11年(1583)4月21日未明、近江国賤ヶ岳にて両軍は激突する。秀吉は馬廻だけを素早く動かし、柴田軍に勝利した。一五日、秀吉は戦勝の喜びを中国地方の小早川隆景に書き送った。

 そこで秀吉は、勝家率いる「敵三万余」に対し、「馬廻ばかり」を三手に分けて交戦したと誇らしげに語っている(『毛利家文書』980号)。

 なんと、秀吉は馬廻だけで三万以上の兵を相手に戦闘を行ったのである。

 このとき秀吉軍の人数は6000人だったとされている(高柳1978)。柴田軍よりかなり少ないが、それでも信⻑が連れ回した馬廻よりは多い。信⻑が馬廻を連れていたときの様子を見てみよう。『中書家久公御上京日記』天正3年(1575)4月21日条に「馬まはりの衆百騎斗」で帰陣する姿が記されている。

 また同年5月の天王寺合戦でも、信⻑は僅か3000の人数を「三段」に分け、そのうち3段目は「御馬廻」だけで編成し、足軽の中に交わて個人戦を行っている。信⻑の馬廻は、数百から数十で数えられる程度の人数で実働されることが多く(谷口1998)、多くても3000人を超えた例が見当たらない。...