『戦う大名行列』web版 目次
はじめに
【序章】軍隊行進だった大名行列
【第1章】領主別編成と兵科別編成
【第2章】中世初期の兵科別編成
【第3章】村上義清から生まれた戦列
【第4章】京都を訪ねた兵杖行列── 越後の隊列
【第5章】謙信の軍列── 車懸りの真相 ☜最新回
  ・
永禄四年の川中島合戦
  ・謙信の七手組
  ・川中島合戦における謙信の軍隊
  ・車懸りの効果
  ・謙信の陣立書
  ・謙信の「御馬廻之御軍列」
  ・御馬廻之軍列[前衛]
  ・御馬廻之軍列[後衛]
  ・武者奉行の役割
  ・軍列の司令塔
  ・御馬廻之軍列[本隊]
  ・御馬廻之軍列の史料価値
  ・川中島合戦における謙信の戦果

永禄四年の川中島合戦

八幡原史跡公園(川中島古戦場)

 謙信は越後でいったん兵を休めると、信濃国川中島へと出馬を開始した。

 ここで起こったのが、いわゆる第4次川中島合戦である。

 信玄は決戦を回避しようとしたが、謙信に誘い出されて強襲に遭い、全軍が乱戦に突入する事態に見舞われた。結果、戦国史上でも珍しい万単位の軍勢同士による大混戦を交えるに至ったのである。

 永禄4年(1561)9月10日早朝、一万余人の兵杖行列を引率する謙信は、霧の先に待ち構える約八千人からなる武田信玄の本軍を視認するなり、猛撃を加えた。

 この戦いには諸説あるが、ここでは謙信の軍隊編成についてのみ見ていこう。

 編纂史料や軍記類は川中島の合戦をまるで見てきたかのように語ているが、その実態は謎につつまれていて、確実なことは明確にできないとされている。だが、史料を整理すると、ある程度まで情報を絞ることができる。

 まずは、川中島合戦を描く戦国軍記と編纂史料のうちで著名な25点を3つに分けて並べてみよう。...