『戦う大名行列』web版 目次
はじめに
【序章】軍隊行進だった大名行列
【第1章】領主別編成と兵科別編成
【第2章】中世初期の兵科別編成
【第3章】村上義清から生まれた戦列
【第4章】京都を訪ねた兵杖行列── 越後の隊列
【第5章】謙信の軍列── 車懸りの真相
【第6章】武田軍の隊形── 模範的軍隊の創出
【第7章】北条軍の隊形── 岩付衆諸奉行のチャレンジ
【第8章】上杉三郎景⻁の軍師
【第9章】織田信⻑と明智光秀の「戦争」 ☜最新回
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「本能寺の変」を招いた信⻑の軍制
  ・光秀の観兵式「御馬揃」
  ・信⻑の融通無碍
  ・軍制の整備よりも即戦力を重視した信⻑
  ・前線に立たされる天下人の孤独
  ・信⻑の「言われる前にやれ」
  ・織田氏「明智光秀軍法」と北条氏「岩付諸奉行衆」に見える違い
  ・本能寺の変にみる光秀と信⻑の用兵思想

「本能寺の変」を招いた信⻑の軍制

本能寺跡

 これまで上杉・武田・北条を中心に見てきたが、本章では確実な史料に乏しい織田信⻑の軍制について、その概観から内実を類推していき、そして「本能寺の変」の背景に隠れた一つの真相を浮き彫りにしたい。

織田信⻑は、少数精鋭と大動員のどちらでもうまく使いこなす名将だった。

 信⻑自身は少数精鋭で動き回っていたが、その場に集まり、信⻑に従う一部将たちがどんな軍隊であるかまで気にしていなかった。

 ⻑鑓隊と鉄炮隊を多用したが、謙信や信玄ほど細かいルールを作って、計画的に動かす使い方は好まなかった。最初から最後まで少人数で自由に動き回り、軍事カリスマとしてそのとき自分で統制できる範囲の者たちに命令を下すことで、彼らに結果を求めるのが信⻑の用兵だったのである。

 信⻑は個人のカリスマだけですべてを回していた。このため、家臣のうちでも軍制と軍法を定めて、近世的な軍隊を整える者は光秀以外の重臣に見られない。近年では政治面も現地に丸投げだったことが指摘されている。

 信⻑の統治は、現地主義の放任が根本方針であった。視界に入った⺠や兵の行動に介入しても、システムの構築には無関心である。したがてその用兵も異質である。信⻑はただ「人を多く集めよ」「この武器をたくさん揃えよ」と命じる。そこで各自が自主的にかき集めて率いた軍隊に、信⻑個人が割て入り、大声を放つ。そして臨機応変に督戦・下命して戦う。...