大人気シリーズ「謙信と信長」もうすぐ完結。

戦国最強武将の「知られざる」戦い。一次資料をもとにその姿を解き明かす大人気シリーズ。

ここまでのあらすじ

『謙信と信長』目次 

【最新回】―(28)上杉謙信の越中平定
 ・謙信の身内が椎名康胤から家督を譲り受けていた
 ・松倉城陥落の伝説と同時代史料の椎名康胤
 ・越中平定
富山城 写真/アフロ

謙信の身内が椎名康胤から家督を譲り受けていた

 越中東部(新川郡)の松倉城主・椎名康胤は、謙信2度目および3度目の越中遠征があったとされる永禄5年(1562)またはその近くの年に、その身内である長尾小四郎(景直)を養子として迎え入れていた。康胤としては、ライバルの越中西部の増山城主(もと富山城主)・神保長職(じんぼながもと)を越後勢が押さえ込んでくれることを期待してこの話を受け入れたのだろう。

 謙信としても越中の治安が落ち着くなら望ましいことであった。

 永禄11年(1568)3月、重臣たちによるクーデターで能登を放逐された能登守護の畠山義続・義綱父子を支援するため、謙信は4度目の遠征を敢行。越中に入った謙信は、義続を支援する神保長職と協調することとなる。

 だが、神保は椎名にとって長年の宿敵である。康胤は、謙信がこれを第二次〜第三次越中遠征で滅ぼさなかったばかりか、親密にするのが我慢ならなかった。せっかく優位に立った越中の力関係が逆転する恐れもあった(萩原大輔『謙信襲来』能登印刷出版部・2020)。

 ところで謙信は越中進軍中に思わぬ事態に遭遇する。越後本国の下郡で、武田信玄と結んだ本庄繁長が挙兵したのだ。謙信は同年4月に帰国を急いだ。

 しかも信玄は、「近年椎名肥前守(康胤)ト無二ノ好(よし)ミヲ修シ」ていたと『謙信公御年譜』に伝わるように、椎名康胤に調略の手を伸ばしていた。これをチャンスと見たものか、康胤は、神保長職が加賀一向一揆勢と不仲であることを視野に入れて、大坂本願寺の顕如と通じて、敵方へ転じてしまったのである。8月12日申刻(午後4時頃)に「越中無二可立色」との様子を春日山城で知らされた謙信は、東を本庄繁長に、西を椎名康胤に、南を武田信玄に囲まれて、「如何共無人数」という人手不足のなか、越中・信濃方面の防備を固めるよう指示した(『上越市史』612号)。

 ちなみに康胤の養子に入っていた椎名景直はこのため越後へ帰国し、長尾氏に復名する。

 翌年(1569)8月、謙信は5度目の越中遠征を行ない、椎名討伐を決意する。康胤は難攻不落の松倉城に立て籠るなり、城下町の金山根小屋を焼き払う浄土戦術を行なった。上杉軍が城攻めに利用するのを避けるためであった。これにより松倉城は「巣城」以外の全てを失ったが、それでも堅固に100日間持ち堪えた。

 余談になるが、越中松倉城の最高所あたりに「大見城」という平地があり、城主または城代の居館があったと伝わっており、これは越後でいう「御実城」だったのではと言われている(佐伯哲也『戦国の北陸動乱と城郭』戎光祥出版・2017)。謙信の尊称は「みのき」の発音する可能性もあると思っているが、「おみじょう」と解釈するのが妥当なのかもしれない。

 なお、謙信はこの陣中でこれまで交渉のなかった徳川家康からの「使僧」を容れ、「向後之儀ハ無二可申合心中候」を望む旨を8月22日付松平親乗宛書状に記している。22日、上杉軍は「金山へ押詰、要害際に陣取、廿二之暁しんしやう(新庄)則、従此方堅固ニ為持」というように新庄城を攻略して、金山を占領して、椎名軍を圧倒していた(8月23日付上杉輝虎書状。『上越市史』799号)。翌日には「所々作毛打散候」て、城内の敵を挑発したようである。

松倉城陥落の伝説と同時代史料の椎名康胤

 ところで現地には真偽不明ながら、ひとつの伝説がある。こういう話である。この城攻めに難儀する謙信が、木こりに変装して近習2、3人と共に城周りを偵察した。すると坪野村(魚津市坪野)で、地元の老婆を見つけたので、声をかけた。

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