大人気シリーズ「謙信と信長」もうすぐ完結。

戦国最強武将の「知られざる」戦い。一次資料をもとにその姿を解き明かす大人気シリーズ。

ここまでのあらすじ

『謙信と信長』目次 

【最新回】―(27)戦国上杉家の家中改革と西上指向
 ・上杉謙信の体制変換
 ・同床異夢の越相同盟破綻
 ・上杉弾正少弼景勝の誕生
 ・北陸と越後軍の因縁
 ・上杉謙信と加賀一向一揆の戦争が本格化
上杉景勝

上杉謙信の体制変換

 越後の上杉謙信は、後継体制と軍制の改革に乗り出していた。

 まずは後継体制である。

 元亀元年(1570)12月、同年中に養子として北条氏康の末子である上杉三郎景虎を迎えた謙信(当時は輝虎)は、有髪のまま入道となり、「不識庵謙信」の法号を名乗ることにした。東国武将が入道して法体となるのは、基本的に隠退の意思表示である。ゆえにこれは上杉家の家督を景虎に譲るポーズとして認められよう。

 ただし話は少し複雑である。謙信は先立って姉の子である長尾顕景を養子に迎えていたのだ。

 これは謙信がまだ長尾景虎を名乗っていた頃で、自身が上杉一族となる未来を予想していなかった時期である。しかも顕景は越後長尾一族の通字「景」を実名の下に置いているので、謙信の後継者として迎えられたと考えるのが普通であろう。

 ところがここに長尾の主筋である上杉一族として景虎が入った。これは何を意味するのだろうか。この疑問は謙信が上杉家の家督をあまり重視していなかったと見れば解決するだろう。謙信は、上杉憲政から関東管領山内上杉一族の「名跡」を一代限りのものとして消極的に受容していた。名誉職のひとつぐらいに受け止めていたのである。

 ゆえに次代には、顕景が長尾家惣領として越後一国を統治するだけの体制に帰するつもりでいた。ところが、越相同盟を結ぶにあたり、自身をこの立場に押し上げた関東諸士への義理を通すため、それまで謙信の上杉家継承を認めず「長尾」と呼び続けていた北条氏康・氏政らにこの継承を既成事実と認めさせるため、同盟の人質として送られた北条三郎を上杉景虎と名乗らせることにしたのである。

 ここに謙信は越後守護代・長尾家の惣領としての実権を顕景に譲り、上杉家の名誉的称号は景虎に譲るつもりであったと考えられよう。つまり、関東管領の職権と責任を放棄して、関東のことは関東に委ねることを望んだのである。

同床異夢の越相同盟破綻

 謙信は越相同盟の中心に景虎を置き、これを両家の象徴的主人として奉戴する東国秩序の構築を企図していたのだろう(もちろんその上に古河公方足利義氏がいる)。しかしその理想は果たされなかった。

 元亀2年(1571)、北条氏康が病死して、同年末に氏政の代になると同時に、同盟は破棄されてしまったからである。

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