桶狭間合戦、関ヶ原合戦など、いまだ謎多き戦国合戦を最新研究と独自の考察で解き明かす『戦国大変 決断を迫られた武将たち』(発行:(株)日本ビジネスプレス 発売:ワニブックス)​が発売中の乃至政彦氏。連載中の「ジャンヌ・ダルクまたは聖女の行進」、今回はドンレミ村を出た後のジャンヌの話。

神の「声」を聴いたジャンヌ・ダルクは、ひとりで思い悩んだ末に、ドンレミ村を保護する城代ボードリクールのもとへ独自の判断で出向いて、シノンのシャルル王太子に会いたいと訴えたとみられている。そのように描くフィクションの作品も多い。だが、実際のジャンヌは同行した叔父がボードリクールにいたく叱られるのを見て、そのマントを引っ張って「もう帰りましょう」と述べるほど怯えていた。

その後ジャンヌはもう一度村を出て、ボードリクールに改めて直訴しようとするが、おそらく初回の直訴と2度目の直訴は、その動機が異なっているだろう。そしてその背景にいるのは、ジャンヌの実母イザベル・ロメであった。

(1)はじめに
(2)序章 ジャンヌ・ダルクと平将門①

(3)序章 ジャンヌ・ダルクと平将門②
(4)第一章 村娘の冒険①
(5)第一章 村娘の冒険②
(6)百年戦争とフランス王国の分裂
(7)ブルゴーニュ派とアルマニャック派とイングランド

(8)シャルル7世の義母ヨランド
(9)リッシュモンの活躍
(10)オルレアンの抵抗
(11)1412年、祭日の夜に生まれたジャンヌ
(12)ドンレミ村で孤立するジャンヌの父
(13)ドンレミ村を出た子供
(14)司令官への訴えはジャンヌの実母が主導した
・なぜドンレミ村は襲われたのか
・ジャンヌ・ダルク初期の同行者たち
・日本における真実をあえて語らない例
・ジャンヌの母イザベルの動き
ジャンヌの母イザベル・ロメ 写真/神島真生(以下同)

なぜドンレミ村は襲われたのか

 1428年、ジャンヌが故郷ドンレミ村に戻ると、同年7月、無法者たちが村を襲撃した。

 西方のドゥレヴァン(Doulevant)と呼ばれる城を拠点とするアンリ・ドルリー(Henri d'Orly)が「兵隊くずれ」の騎兵を引き連れてきたのだ。

 彼らはドンレミ村の教会を焼き払い、ドンレミだけでなくグルーの家畜をも略奪した(『幻想のジャンヌ・ダルク』第Ⅱ部序。堀越孝一『ジャンヌ=ダルクの百年戦争』[清水新書、1984]は騎士「アンリ・ドルリイ」の来襲を1425年のこととするが、1428年が正確と思われる)。

 なおこの家畜は、村々の女領主であるジャンヌ・ド・ジョワンヴィル(ジョアンヴィル)が従兄弟のアントワーヌ・ド・ヴォーデモンに軍勢を派遣させて奪還し、主犯のドルリーは殺害されている。

 しかしドンレミ村は、本来ならボードリクール司令官の軍勢に守られて然るべきであったが、この時、ヴォークルール城もベッドフォード公の属下にあるアントワーヌ・ド・ヴェルジー総督に攻撃を受けて、攻囲されており、ボードリクールは兵隊くずれの襲撃に対応できなかった。

 かつてジャンヌの父ジャックが兵隊くずれに現金を納めてその横暴を食い止めていたが、ジャックはすでに村の長老役を降りていた。ドンレミ村は野盗まがいの連中に金を出す必要はないと強気の方針に改めていたらしく、ヴォークルール城が敵軍に攻められているのを好機と捉えた兵隊くずれ達の報復を受けることになったのだろう。

 襲撃の間、ジャンヌたちはロレーヌ公領のヌフシャトーに避難していた。後年、彼女の『処刑裁判』において、検事ジャン・デスアィヴェは、ここでジャンヌを世話したラ・ルースという女性を娼館の主人のように印象操作しているが、実際には親シャルル王太子派の「有力市民」ではなかったかと推測されている。

 同町の市民が国立裁判所まで領主ロレーヌ公への訴訟をした際に資金を貸した形跡があるためである(「翻訳者の註釈」/高山一彦『ジャンヌ・ダルク処刑裁判』白水社、1984)。

 ドンレミ村は方針を改めるにあたり、ボードリクールの支援表明を取り付けていたと考えるのが普通である。

 そしてジャンヌたちが初めてヴォークルール城を訪ねたのも、不穏な情勢を危惧して、兵隊くずれ対策を急ぐよう求めてのことなのではなかろうか。

 彼女が奇跡の声だけを頼りに、自らの身を顧みず城代に面会を求めたわけではない。

ジャンヌ・ダルク初期の同行者たち

ドンレミ村のジャンヌ・ダルクの像とステンドグラス

 ここで考えられるのは、次の流れである。

 まず叔父(ジャンヌの実母イザベルの姉の娘婿)デュラル・ラクサール夫婦のいるピュレーへと赴くが、心配性の父親が、ジャンヌ一人での遠出を許すとは思えない。同行者がいたと考えるのが妥当である。

 消去法で考えてみよう。...