桶狭間合戦、関ヶ原合戦など、いまだ謎多き戦国合戦を最新研究と独自の考察で解き明かす『戦国大変 決断を迫られた武将たち』(発行:(株)日本ビジネスプレス 発売:ワニブックス)​が発売中の乃至政彦氏。連載中の「ジャンヌ・ダルクまたは聖女の行進」、今回はシャルル7世の妻の実母、つまりシャルル7世の義母にあたるヨランドについて考察する。

(1)はじめに
(2)序章 ジャンヌ・ダルクと平将門①

(3)序章 ジャンヌ・ダルクと平将門②
(4)第一章 村娘の冒険①
(5)第一章 村娘の冒険②
(6)百年戦争とフランス王国の分裂
(7)ブルゴーニュ派とアルマニャック派とイングランド

(8)シャルル7世の義母ヨランド
   ・停滞するイングランドのフランス支配
   ・シチリア王ルイ2世の妻ヨランド・ダラゴン
   ・王妃イザボーの思惑
   ・正式にシャルル7世の義母となったヨランド
   ・ヴェルヌイユ合戦の敗北 
   ・王軍司令官リッシュモン
ヨランド・ダラゴン

停滞するイングランドのフランス支配

 フランスとイングランドの小競り合いは続いたが、どちらも国王を失なったばかりのため、大きな戦いを進めるわけにはいかない。

 ヘンリー6世はイングランド摂政としてロンドンにグロスター公ハンフリーを、フランス摂政としてパリにベッドフォード公ジョンを立てて、国政の建て直しに努めた。

 一方でシャルル7世とアルマニャック派は、イングランドのフランス介入が薄まっているうちに、諸公の力を頼って、ロワール川以南の都市や所領をほぼ勢力下に収めていった。

 そして両者とも王位を主張して譲らなかったが、どちらも戴冠式を執り行えず、決定打を欠いていた。ここにフランス王家の両立状況は、長期化の様相を呈していた。

 このような政局の複雑化は、ある意味では前王シャルル6世の王妃イザボーに原因があったといえよう。混乱するフランスに秩序をもたらすため、イングランドの介入を模索したことで、より深刻なフランスの分裂を招いたのだ。

 不運もあろうが、何一つ彼女の思惑通りには進まなかった。ことごとく裏目に出てしまっていた。

 このような「元王妃」がいる陰で、恐るべき別の「王妃」が蠢動していた。

 王太子シャルル7世の妻の母、つまり義理の母であるヨランド・ダラゴンである。

 シャルル7世にとって実母イザボーと義母ヨランドとどちらが信用に足る人物かというと、彼にとっては義母の側だったらしい。実際、彼女は頼りになった。

 ブルゴーニュ派によってフランス王家の者たちが首都パリを逐われた1414年2月5日、11歳ならんとする少年シャルル7世は義母ヨランドに同行してその庇護を受けることになった。そこで未来の妻と生活を共にすることになったのである。

 かたや実母イザボーはパリに留まり、ブルゴーニュ派の監視下に置かれていた。この時の苦い生活がイザボーをして平和への希求に惹きつけられやすい気質を深めたのだろう。イザボーはアルマニャック派の恐怖支配がパリ市内に混乱をもたらしているうちに、夫とルーブルの要塞へと避難した。

 同時代の歴史家ジャン・シャルティエによる年代記によると、イザボーはヨランドのもとにいるシャルル7世の身の上を心配して、息子に伝えてほしい忠告や教育方針を意見する手紙を多数、ヨランドに送り続けたという。作り話とは思えないので、イザボーなりに息子の行く末を強く案じていたのだろう。

 頻繁に送りつけたということは、ヨランドからの返信も重ねられていたということだろう。ヨランドは人からの信頼によく応える女性であった。

シチリア王ルイ2世の妻ヨランド・ダラゴン

 王太子シャルル7世には、1つ年下の妃がいて、その父はかつてローマを占領し、ナポリ王(南イタリアの王)にならんと野心を燃やしていたアンジュー公ルイ2世であった。シャルル7世の義父ルイは、英雄気質な男であった。...