(1)はじめに
(2)序章 ジャンヌ・ダルクと平将門①

 ・現代人は中世人を笑えるか
 ・合理の前に信仰はない
 ・未来よりも現在を生きた人々
 ・ジャンヌ・ダルクは巫女だった
 ・土俗信仰と新興宗教の習合および分離
 ・呪術的信仰の合理性
 ・リスクは嘘を遠ざける
 ・中世の合理性
 ・『将門記』の名もなき昌伎から 
オルレアンのサント・クロワ大聖堂 写真/神島真生

現代人は中世人を笑えるか

 私はジャンヌ・ダルクを人工少女であったと考えている。

 といっても「バッタオーグ」や「ハチオーグ」みたいな人造人間ではなく、自身と他者がひとつの物語を飾り立て、発展させていったものである。そしてそれは人工聖女となり、ついには本物の聖女となっていく。

 かつて彼女は「魔女」と評されることもあったが、現在はいささか相違して、狂信的な病者または愚者の類であったとする評価がある。

 今でいう第二次性徴期から、幻視・幻聴を見聞きするようになり、それを「神の声」として疑いもせず盲信していたとなると、そう考えたくなるのもわからなくもない。

 ジャンヌに強い信仰があったのは事実である。

 彼女の友人も彼女がまだ普通の村人だった頃のことを「すすんで、度々教会に通い、父親から貰ったものを貧しい人々に施して」いて、人並み以上に「善良で、純心で、信心深かった」と証言している。

 ジャンヌは心優しく性格のよい真面目な少女であった。そして信仰の心も深かった。

 そんな少女がなぜ自ら過酷な運命に身を投じたのか、この謎に答える合理的な答えとして「狂気」という解釈が受け入れられているのである。だがこのような評価も「信仰」(または「迷信」)と同じで、確たる情報がないにもかかわらず、合理的に説明をつけようとして根拠のない主観を置いているに過ぎない。

 してみると、ジャンヌを妄想の強い幻覚者で、狂気の人だと突き放す人には、中世人の信仰を笑う資格などないように思われる。

合理の前に信仰はない

 そもそも「信仰」というものは、文明のあるところにこそ備わるものであることを理解してもらいたい。

 当たり前のことだが、トカゲや猿のような動物に信仰の心などない。彼らは信仰より合理を優先する。かつて人間が動物から人間に進化したときも、まず合理の精神と判断があって、それ以外はほとんど何もなかったと考えるのが自然である。

 文明未満の人類にすれば、衣食住の確保こそが最優先である。普通に考えて、それ以外の思考にかまけている余裕などなかっただろう。

 暖かい衣を作る。火を起こして食物を焼く。乾燥させて保存する。雨風を凌ぐ住居を作る。これに特化した生活習慣と環境を整えていく。ささやかな共同体を整える──。こうした営みを繰り返すことで、経験知を獲得していく。その途上において、合理の精神以外は、物の役に立たない。天を仰いで「今日も食べ物をいただける喜び」を捧げて何になろうか。暇がなければ、儀式を考えつくこともない。

 やがて共同体が大きくなってくる。すると社会ができてくる。言語が生まれたばかりの時代、語彙と概念はまだまだ少なかった。

 人間の会話は、合理で成り立つ。

 だが、まだ言語化されていない思考や、情報の不足している現象の解釈は、語彙と概念(つまり共通言語)がある程度揃っていなければ、会話にできない。

「おはよう、おやすみ、ありがとう、さよなら」程度の言語しか持たない生き物に、「太陽ってなぜいつも東から昇るんだろうね」「俺の親父はみんなより早く亡くなった」という会話はできない。

 初期の人類は、「世界とは何か、人間とは何か」という疑問が生じたとき、その時代にある情報──合理というゲームで揃えるべきカード──が限られているため、物事を解釈する限界(もちろんその時の種族の文明的社会的な情報の蓄積)に直面する。しかしカードが揃うのにどれだけの時間を要するかわからない、とりあえずでも構わないから合理的な答えがほしい。

 そこで合理を埋め合わせるカードとして、信仰が発明され、活用されていく。

 そもそも「合理」とは今集められる情報に合致する理屈を揃えることである。合理こそが社会の判断・判定の基準となる。

 人間は合理をベースに進歩してきた。信仰は文明から生まれたものである。

未来よりも現在を生きた人々

 当時の人々にしてみれば、現代的科学の登場など待ってなどいられない。何百万年も先の未来を正しく生きることより、現在を生きることの方が重要なのである。

 ここに、迷いを埋める仮初めの答えとして、信仰(あるいは「幻想」や「物語」と言ってもよい)が生まれる。このように信仰は合理より前にではなく、合理の派生としてとりあえず生み出された。猿に信仰がないように、原初の人間に信仰は存在し得なかった。

 ただ、社会と文明が育っていくと、この信仰が合理から分離的になっていく。人間と人間をつなぐ共同体の幻想および物語として、その思考を最適化する形で信仰が巨大化する。同時に人間が獲得した経験知つまり情報量が増えており、信仰と異なる知識もあろうから、その矛盾を信仰の側が埋めていくことはあまりないので、合理と信仰はそれぞれ独自の道へ進んでいくのであった。

 こうして幻想と物語は、文明の潤滑剤として社会を発展させる。すると人はしばしば合理より物語に支配されることが増えてくる。実社会の役になど立たないのに、神格に祈りを捧げる、亡くなった人間のために葬儀を行なう、聖地にお供えものをする。これを近代には「迷信に捉われた人々だ」と笑う人もいた。

 だが、信仰の支配力が合理の支配力と拮抗する過程で、信仰と合理がまだ強く重なっている時代があった。

 この接合点を読み解くことが、ジャンヌを読み解く手がかりとなるのである。

ジャンヌ・ダルクは巫女だった

 ジャンヌ・ダルクという少女が何者であったか、ここでひとつの仮説を立てよう。

 ジャンヌ・ダルクは「巫女(みこ)」だった。

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