大人気シリーズ「謙信と信長」もうすぐ完結。

戦国最強武将の「知られざる」戦い。一次資料をもとにその姿を解き明かす大人気シリーズ。

ここまでのあらすじ

『謙信と信長』目次 

【最新回】―(34)手取川合戦を記した史料
 ・謙信最後の合戦
 ・史料によって温度差がある手取川合戦
 ・手取川合戦を記す一三の軍記史料
手取峡谷 写真/アフロ

謙信最後の合戦

 天正五年(一五七七)、謙信は中央を制する織田氏の軍勢を加賀国手取川で敗北させた。これにより北陸地域の勢力図は一変する。

 越中・能登・加賀まで支配領域を拡大した謙信は、家臣に当てた書状(『歴代古案』)で「案外手弱の様躰、この分に候わば、向後天下までの仕合、心安く候」と豪語した。「(信長は)思ったよりも弱い。これなら今後の天下取りも簡単だろう」と余裕の色を見せたのである。

 ただし手取川合戦の実像を示す史料はこの誤字が多い書状の写し一枚だけとされている。しかも信頼性が高いとされる信長の一代記『信長公記』に交戦の記述がないことから、合戦の規模と実在を疑問視する向きがある。

 本章ではこれまで実態不明とされてきた手取川合戦の内実を追いながら謙信の軍隊が到達した領域を見ていこう。

史料によって温度差がある手取川合戦

 ここからは手取川合戦そのものの実像を追っていく。まずは合戦の実否を見る上で、研究者たちから最重要視される『信長公記』の該当記述を見てみよう。

八月八日、柴田修理亮(勝家)、大将として北国へ御人数出され侯。瀧川左近(一益)・羽柴筑前守(秀吉)・惟住(これずみ)五郎左衛門(長秀)・斎藤新五(利治)・氏家左京亮(直通)・伊賀伊賀守(安藤守就)・稲葉伊予(良通)・不破河内守(光治)・前田又左衛門(利家)・佐々内蔵介(成政)・原彦二郎(長頼)・金森五郎八(長近)・若狭衆、賀州へ乱入。湊川・手取川打ち越し、小松村・本折村・阿多賀・富樫、所々焼き払い、在陣なり。羽柴筑前、御届をも申し上げず、帰陣仕り侯段、曲事の由、御逆鱗なされ、迷惑申され侯。(『信長公記』一〇巻)

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