大人気シリーズ「謙信と信長」もうすぐ完結。

戦国最強武将の「知られざる」戦い。一次資料をもとにその姿を解き明かす大人気シリーズ。

ここまでのあらすじ

『謙信と信長』目次 

【最新回】―(32)手取川直前の東国情勢
 ・武田勝頼の様子
 ・北条氏政の存在
 ・信長の謙信対策・手取川合戦前夜
 ・七尾城内の混乱
手取川古戦場跡 写真/フォトライブラリー

武田勝頼の様子

 ついで甲斐・信濃の武田勝頼だが、生前最後に信玄が越前朝倉義景を介して謙信と和睦することを希望していたように、越後上杉家と甲斐武田家には交渉の余地があった。

 それでも謙信は、天正二年に織田・徳川連合と武田挟撃作戦を実行するつもりでいたが、両家が上杉家の作戦に歩調を合わせていないことに不満を持ち、ここから大きく戦略を変更したようである。同年、山崎秀仙を信長のもとへ派遣して、その失態を難詰したとき、すでに謙信の心は信長から離れていたであろう。

 謙信の狙いは、反織田勢力の本願寺と武田家がその後も継戦能力を維持することにあり、謙信は彼らが健在であるうちに自身の上洛を実現しようと考えていたと思われる。

 そこで信長を武田戦に専念するよう指導して膠着状態を作り出そうとしたが、信長は長篠合戦で武田勝頼相手に謙信の予想を超える圧勝ぶりを見せた。

 ここに謙信は自身が未介入のまま諸勢力が拮抗する状態を継続することは期待できないと判断して、信長からの使者を無視して、勝頼との協調路線を模索することになる。

 そして天正三年一〇月一五日、関東に出た謙信は同月下旬に五覧田城を攻め落としたのち、「越・甲可被遂御和内々落着」として密かに勝頼と和睦したことが確認できる(上越市史一二七二)。

 北条氏政が「三和之儀」について甲越両国の和平はすぐに整ったと述べていることから、「御和内々」は勝頼から北条氏政にこっそり知らされたようである(遺文北条一八八六)。

 ところでこれは事実とは思われないが、『謙信公御書集』には、「同年九月、武田勝頼ゟ越府以使節乞和儀」との記述があり、一〇月一八日に勝頼は謙信の「御所望」により、「冨永清兵衛眼前染身血」つまり謙信から派遣された使者の眼前で、血書の「誓詞」を作成して「越府」の「上杉殿」に送らせたことが伝えられている。

 謙信はかねてから勝頼に好意的で、その健気さに涙を流して褒めることや(『甲陽軍鑑』品第四〇)、信玄死後の侵攻を「大人げない」とためらい(『松隣夜話』下巻)、武田氏への軍事行動を消極化させていったと伝えられている。勝頼が謙信と友好関係を密かに結び、捲土重来を図っていたとする近世史料は意外に多い。

 勝頼は、天正四年(五年説もある)中に北条氏政の妹(桂林院殿)と婚儀を結び、甲相同盟を強化した(「甲乱記』)。これは上杉家との和睦による北条家からの不信感を避けるためかもしれない。ただ、そうすると勝頼は重ねて上杉家との同盟強化も検討しなければならなくなる。

 謙信死後に勝頼妹の菊姫(大儀院殿)と上杉景勝は婚姻することになるのだが、近世初期の『管窺武鑑』は二人の婚儀について「天正五年[中略]輝虎公より勝頼公への繕あつて、翌年正月相調ひ、勝頼の妹を景勝の室にと約束」とあり、謙信生前から予定されていたことを示す。

 これが事実なら義昭の望む「三和」を婚姻関係によって実現しようとしていたことになろう。

 近世にこういう物語を違和感なく受容する層があったのであれば、両家の「御和内々」から「三和」の流れがありそうなことと察する東国人は少なからずいたのだろう。

北条氏政の存在

北条氏政

 北条氏政と謙信は不倶戴天の険悪な関係にあったが、北条家の盟友である武田勝頼が上杉家と講和して、氏政にもこれを伝えようとしたと言うことは、足利義昭が繰り返し要請していた「三和」の可能性もあったのではなかろうか。

 天正四年(一五七六)八月六日、北条氏政は足利義昭の命令に服し、「甲・越・相三和」に従う覚悟を決めている。

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