「歴史ノ部屋」でしか読めない、戦国にまつわるウラ話。今回は戦国合戦の足軽の成り立ちと停止、復権とともに現れた武将について紹介します。
写真/アフロ

中世に生まれた足軽

 日本の足軽を有り体にいえば、足利時代前期までに領主権力および地域社会から独立して、城郭を構え、「路地狼藉」に携わった「悪党」の後継者であると考えられる。

 悪党は単なるチンピラではなく、簡単に排除できない独自の共同体と実力を備えていた。その実力行使に同調する勢力と民衆が背後に存在していたのである。

 だが、中世の社会変化つまり足利幕府の成立と継続により、地域権力と地方社会が成熟するに連れ、勢力としての悪党はその存在意義を失っていく。統治者の支配体系に組み込まれていったのである。

 ところが一部には、その枠組みに入らない小集団や個人がいた。これが足軽となっていったのだろう。かくして応仁・文明年間、「足軽」と呼ばれる武装民が畿内を中心に立ち現れてくる。特に応仁2年(1468)3月、東軍に属して「徒三百余人」を率い、山名軍陣地への「西軍之糧道」(糧道という表現はこれ以前に確認できず、その後も天正年間まで100年以上見られない。駐屯地と物資集積地が臨時に生じたと考えられる)を断ち、「放火下京」などの活動を展開して「悪党」と称された「骨河(皮)道賢入道」の勢が有名だ。その後も東西両軍はこうした者たちを雇い入れ、「悪党」ではなく「足軽」という比較的穏やかな表現で呼ばれるようになっていく。

 なお、応仁・文明の乱が終わったあとも周囲ではまだ戦乱が継続しており、「足軽」も継続して武士たちに利用されていた。

足軽の正体

 応仁・文明の乱の最中の畿内情勢を記した大和国興福寺の『大乗院寺社雑事記』文明4年(1472)2月12日条に次の記述がある。...