「歴史ノ部屋」でしか読めない、戦国にまつわるウラ話。今回は合戦の「見物衆」について。中世には、合戦の現場を見にいく「見物衆」がいた。彼らは百姓である。今回はこの見物衆がどのような存在であったか、同時代の史料からその姿に迫っていく
写真/アフロ

非武装が本来の姿であった百姓たち

 前回、『七人の侍』のように実際の百姓も、多くは弱い民衆であったことを紹介した。百姓が武装活動した例に、当時の言葉でいう「土一揆」(武装した百姓の示威行為)があるが、これも百姓である側面が強調された言葉が使われているところから、普通のこととは受け止められていなかったことがわかる。

 よく言われる「一向一揆」も、その主体は武士や僧侶で、百姓はその補完的存続であった。信長が一向一揆に協力した者たちを大量殺害したことで、百姓主体との印象が強いけれども、

 越前一向一揆での虐殺は、当時の織田信長書状において「府中町ハ、死かい計にて一円あき所なく候、見せ度候、今日ハ山々谷々尋捜可打果候」と述べており、「死かい計」とあるのが、農民などの百姓であったとは見えない。また、『信長公記』巻八に「惟任・羽柴両人として府中の町にて二千余切捨」とあるが、こちらにも百姓の殺害という書き方にはなっていない。

 そして豊臣秀吉の「刀狩り」では、農民たちも強く抵抗することなく、武装解除を受け入れていく。武具を手元に置いて、中には佩刀を常とする百姓もいただろうが、それも一部を除き、基本的には不本意で、本来の百姓の姿ではないという意識があったのだろう。

 もし秀吉や徳川家康が同じことを武士に命じていたら、明治9年(1876)の「神風連の乱」のように、激しい抵抗が起きていたに違いない。

百姓いろいろ

 やはり百姓にも色々とある。前回に見た弱き民衆もいれば、呼ばれてもいないのに戦場近くまで出向き、敗北者から略奪を働く者たちもいた。...