「歴史ノ部屋」でしか読めない、戦国にまつわるウラ話。今回は大河ドラマ『どうする家康』でも描かれた「信康事件」について。徳川家康の嫡男・松平信康が自害したとされる「信康事件」は、信康が武田勝頼に通じたことで起こったとする説、信康が狂気に陥ったことで後継者の資格を失われて追放したところ、自害してしまったとする説などがある。だが、実際には、激しく揺れ動く当時の政治関係に要因があったのではないか。当時の状況を見渡すと、徳川家が武田勝頼と水面下で和睦を進めようとしてもおかしくない環境があった。
岡崎三郎信康像

松平信康の最期

 天正六年(一五七八)三月一三日、越後の太守・上杉謙信が病死した。死因は同時代史料に「虫気」とあり、家臣や身内に形見分けの指示をして遺言を残していることから、内臓疾患に倒れて苦痛に喘いだ末に絶命したものと思われる。

 この前年、謙信は手取川合戦で織田軍に勝利しており、今少し寿命が残されていれば、「天下までの仕合(しあわせ)」すなわち上洛戦を催すつもりであった。ただしその前に“関東越山”を実行する準備を進めていた。

 過去に謙信は、ほぼ毎年越山を繰り返していたが、天正二年(一五七四)に越山してからは関東に出馬していなかった。

 最晩年の謙信は分国全体に「陣触」を進めていたが、この大規模動員の目的が関東か上洛かで議論を招くことがある。だが同時代の史料を見ると、謙信本人が「仍晴朝(結城)越山度々催促」を受けて、「関左越山」すると述べており、上杉家臣が「近々南方表」への遠征予定を公言していることから、関東越山を予定していたのは間違いない。

徳川家康と松平信康の確執

 天正7年(1579)8月29日、徳川家康の正室にして信康実母の築山殿が、遠江富塚で殺害された。続けて16日後の9月15日、三河岡崎城を追い出された家康嫡男の松平信康が遠江二俣城で自刃させられた。

 今年の大河ドラマでも取り上げられた信康事件である。

 事件には前触れがあった。...