「歴史ノ部屋」でしか読めない、戦国にまつわるウラ話。今回は、長らく多くの為政者を迎え入れ、捨ててきた関東の民が、徳川家康の入部でどうなったのかを綴ります。
皇居外苑の二重橋 写真/アフロ

平将門を推戴した関東の民

 徳川家康が入るまでの関東は、エリートのインテリ為政者を好む傾向があったのではなかろうか。

 例えば、平将門。

坂東市にある平将門像 写真/フォトライブラリー

 将門は関東出身だが、少年期に京都で英才教育を受けており、公的政権への忠誠心を叩き込まれ、公的な戦争と、私的な紛争を区別する思考法を身につけていた。ところが父の急死によって帰国すると、現地で京都と異なる原理が幅を利かせており、将門を戸惑わせた。

 叔父たちが遺領を奪おうとしたり、官軍の武装を勝手に借りて他人を脅そうとする豪族が現れたのだ。若い将門は理不尽に我慢できず、彼らを武力討伐した。しかもまるで盗賊を討つように殺害した。関東では見られない冷酷な報復だったが、筋は通っていた。

 人を脅かすのに官軍の装備を流用するなど、あってはならないことだったが、将門が猛威を振るうまでそれがまかり通っていたのだ。将門の勇姿は関東民の支持を集めた。彼らも悪弊に辟易していたのだろう。

 だが、関東の民衆は、将門が京都と対立すると、あっさりと将門を裏切り、官軍の側についた。将門の身は一過性の世直し勇者として、関東から消え去ったのだ。

関東の民と中世武士

 その後、源頼朝が関東に現れた。

源氏山公園にある源頼朝像 写真/フォトライブラリー

 頼朝は京都生まれの京都育ちだが、関東に強い支持基盤を得て、建久3年(1192)には相模鎌倉で「征夷大将軍」となる。...