小田城跡(茨城県つくば市)

(乃至 政彦:歴史家)

 居城である小田城を何度も落城させたことから「戦国最弱」といわれる武将・小田氏治。一方で「常陸の不死鳥」とも評され、愛される一面も持つ。果たして本当に「最弱」だったのか?  まずは結城政勝との戦いから追っていく。

未完のキング死す

 天文17年(1548)2月22日、常陸国中部の小田政治(まさはる)が亡くなった。享年57。

 政治の力量は高く評価され、『菅谷伝記』は「小田の城主は[中略]累代の弓執にて武威関東に盛んなり。幕下には信太範宗(しだのりむね/重成菅谷勝貞(すげのやかつさだ、[中略]武備厳重なり」と称えている。ここにあるように、小田・信太・菅谷は三頭龍のように首をもたげ、関東を睨めつけていた。

 政治は勢力拡大に努め、関東諸国にその名を轟かせた。特に争ったのは同国北部の佐竹氏と下総国の結城氏である。佐竹氏には妹を嫁がせることで同盟し、同国南部の共通の敵・大掾(だいじょう)氏を共に圧迫することにした。常陸国はこれで一応の小康状態を得た。

 ちなみに政治には堀越公方からの養子だったという説がある。もし事実とすれば、京都の将軍・足利義教の孫になるが、伝説の一つに過ぎないだろう。ともあれ政治が小田一族屈指の〈キング〉として畏敬されていたのは間違いない。ただ、政治に信服する味方はまだほとんどいない。ある意味、未完のキングであった。

 その跡目は15歳(または18歳とも)の嫡男・氏治が継ぐことになった。政治は、息子が小田キングとして君臨する未来を夢見ていただろう。

小田氏治の内憂外患

小田氏治(Wikipediaより)

 小田家臣の城主名簿(『小田家風記』)を見ると、先述したように土浦城主・信太重成と藤沢城主・菅谷勝貞の存在感が強い。

 菅谷は公方からの感状を受けるほどの勇将である。信太も有能な一族を数多く従え、居城の土浦は堅固である。先代・政治と苦楽を共にした同志だけあり、とても頼もしい。だが、氏治には内憂と外患があった。

 内憂とは、氏治自身が年少なことである。家臣たちに対する発言力は、当主の貫禄に相応する。政治の葬儀に参席した家臣たちは、それぞれ顔を見合わせ、誰が小田家の主導権を握ろうと考えているか、あるいは裏切りを企んでいるか訝しんだに違いない。当主交代による威信の低さをどう乗り越えていくかが喫緊の課題であった。

 外患は、小田政治が当たり構わず敵を作ったことである。

 特に下総国の結城政勝は、不倶戴天の憎むべきデコ助野郎だ。その勢力は油断できない。下野国には政勝実弟で、門閥意識の高い小山高朝がいる。また、同国の宇都宮俊綱(尚綱)は政勝の妹を娶っている。同国烏山城の那須高資は結城と組んで小田を攻めてきたことがある。下野国は要注意人物の宝庫だった。

結城政勝像 東京大学史料編纂所蔵

 政勝は強欲にもこの常陸国に侵略的で、政勝の手先である下館城主・水谷全芳(みずのやぜんほう/治持が、小田方の真壁城主・道俊(どうしゅん/家幹ならびに、かつて結城方から小田方に寝返った下妻城主・多賀谷祥春(たがやしょうしゅんの動向を舌舐めずりしながら見つめていた。これではいつ不測の事態が起こるかわからない。

関東に扶植する北条政権

 関東はどこを向いてもならず者だらけだった。彼らは長年の争乱を生き残った群雄だけあって、ずぶとく、調子に乗ると手に負えない。

 できることなら敵に回したくないが、味方にしても頼りないのは、関東諸士が同志として集まった2年前の河越の敗戦で折り紙つきである。何せ総大将の上杉憲政が、敵軍の奇襲を受けても、誰も助けることなく、さっさと逃げだしたのだ。小田軍もそこにいたが、撤退する公方さまをお守りするのに精一杯で、憲政を守る余裕などなかった。

 勝利したのは相模国の北条氏康だ。氏康は古河に帰城した公方を傀儡にして、関東に〈北条政権〉を扶植させようとしていた。関東諸士はこれまでの意地を捨て、新時代に適応する方策を考えなければならない段階に立たされていた。

 そのためだろう。彼らは周囲と休戦協定を結んだり、あるいは領土紛争を激化させたりしていた。負け犬同士で足を引っ張っているようでもあった。

 さて、小田家はどうなるだろうか。亡父は北条と険悪だった。もし北条の天下になれば、氏治の居場所などどこにもないだろう。しかも憎むべき下総国の宿敵は、氏康に尻尾を振って、自家の拡張を狙っている。木魚頭の結城政勝だ。だから氏治は北条政権の成立を認める気などない。

 これはもちろんアンチ小田の政勝にとって大きなチャンスである。

 手早く動いたのは、結城家臣の水谷全芳だった。全芳は武力ではなく、謀略を行使した。まず小田家臣の真壁道俊とこっそり交渉した後、道俊を迎えにいき、結城城に出仕させたのだ。だがこれはまだ序の口である。水谷は、さらにこの真壁と組んで、裏切り者の多賀谷祥春を攻める段取りを整えた。祥春は仰天した。

 謝って許してもらおう──。そう考えた祥春は、結城政勝の老母・玉隣(宇都宮成綱娘)が亡くなったのを聞きつけて、その葬儀に参列した。祥春は息子と並んで、政勝本人に頭を下げた。こちらが苦しい時に裏切った裏切り者など許したくはなかったが、場が場であるだけに政勝はこれを許した。

 真壁と多賀谷が寝返ったことで、小田の勢力圏はいきなり大きく削られた。

「常陸の不死鳥」小田氏治の実力は?

 さて、小田氏治の評価と資質について見てみよう。

 昨今では「常陸の不死鳥」の美称で讃えられるが、同時に「戦国最弱の武将」と酷評されることも多い。氏治は重要な合戦で何度も大敗して、拠点を奪われているからだ。それでも立ち直りが早いことから、領民から愛される呑気な好人物と見られがちである。

 ただ、氏治はそんなに単純なお殿さまではない。

 氏治が敗戦する時は、いつも多数の将士が戦死した。後年の手這坂合戦では、名のある武士が97名、兵卒2800余人が、敢闘して散華している。未来ある将士が進んで身命を捧げたのは、氏治を自身の名誉と身内の未来を託せる大将と見ていたからだろう。ちなみに氏治は、ほかの敗将と違い、酒色に耽る愚人だったとか、姦臣に騙されていたなどと馬鹿にする記録がどこにもない。

 各種文献が「累世無双の弓取」「常総両国を掌に握り、武威八州に振ひ、強盛の猛将」(『小田軍記』[巻一])、「若大将にて自身の働きを好み玉ふ」(『小田原記』[四])、「血気盛りの若大将」(『芹澤家譜』)とその剛勇ぶりを証言している。氏治は和歌を好むインテリ武将でもあった。文武両道の主君として人々を魅了していたのだ。

 なお、その「不死鳥」ぶりについても、「七度まで没落に及ぶと雖も[中略]百姓・町人まで地の譜代なる故旧主(氏治)を慕い、年貢以下をもとかくにかこつけて当領主(占領者)へは渡さず、密に旧主へ運び出し、旧主に心を合て襲ひ攻むる故に、遂に取りかへされて、一年ともこらゆること能はず」(『佐竹家譜』[第十九義昭家譜])とあり、家臣だけでなく、領民からも愛されていたようである。

 なお、氏治が家督を継ぐと、家臣たちは活発に侵略行為と内部粛清を繰り広げた(『小田氏譜』[上])。中でも宍戸通綱は結城方から常陸国の海老ヶ島(えびがしま)城を奪い取っている。彼らは氏治の器量とは別に、おのれの野心のため、フリーダムに活動していたようだ。

結城政勝の苦悩と決意

 結城政勝は「血気盛りの若大将」が、家臣たちを調略されて黙っているわけがないと見ていた。にわかに緊迫する情勢を見た近辺の領主も、自らの立ち位置を問い直す事態に直面していた。だが、「それにしても」と政勝は頭を抱え込んだ。

 政勝の家臣たちはとにかく質が悪い。同僚同士で刀を抜き、睨み合っていたはずが、いつのまにか同じ茶碗に酒を注ぎあって談笑している。政勝に酔っ払って声を荒げる侍もいた。訴訟問題ではみんな、黒を白と強弁して恥じることがない。陣触れの貝を鳴らすと、出陣先も確かめず、勝手なところに攻め込む者までいた。考えなしの身勝手者ばかりなのだ。

 小田方への調略も政勝の指示ではなく、彼らが独断で進めたのだろう。その結果、敵から憎まれるのは大将だからやってられない。だが、それでも政勝は、逃げるつもりはなかった。すでに当の氏治は、佐竹と組んで、結城領を攻める段取りを進めていた。

 かつて政勝は、小田政治に何度も苦杯を味わされてきた。その息子である氏治と争えば苦戦するのは間違いない。政勝は北条氏康を頼ろうと考えた。

北条氏康の油断

 氏康は房総平定に専念していた。敵は安房国の大名・里見義堯である。早く降伏させられれば楽なのだが、義堯は「他国への計策」が得意である。手間取るのは必須だった。それでも房総平定を決めたのは、常陸情勢にしばらく大きな動きがないと見たからである。

 それまで反北条派の小田が佐竹と組み、親北条派の政勝に合戦を仕掛ける動きがあると聞いていた。だが、その佐竹が「小田とうまくいっていないので仲良くしたい」と使者を送り、今後の相談をしてきたのだ。佐竹と不仲では、小田も自由が効くまい。ならば、政勝の支援は後回しでいい。

 かくして氏康は、天文24・弘治元年(1555)、房総平定に兵力を集中させ、結城支援は「来春」あたりから進めたいと考えていた。だがこれは、小田氏治と佐竹義昭の罠だった。

関東〈総進撃〉作戦

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 佐竹と小田は別に仲違いなどしていなかった。両者は水面下で密接に謀議を重ね、氏康の矛先を房総に向けさせ、その間に結城攻略を果たすつもりでいたのだ。

 氏治と義昭は、氏康をまんまと欺いた。氏康不在なら、非力な政勝など簡単に打倒できる。結城城は99年前の結城合戦で、哀れな落城に見舞われた。来年はその百周年を祝ってやらねばなるまい。きっと政勝もサプライズに驚いてくれるだろう。そう思うと、氏治と義昭は楽しくてたまらなかった。

 この計策は、里見義堯の提案だったかもしれない。長年の抗争が続く氏康を、義堯が引き受けている間に、小田・佐竹連合が結城を攻め滅ぼしたら、大反撃が可能になる。昨年は古河城で前公方が挙兵し、氏康はこれを鎮圧して幽閉した。関東各地に潜在的な反北条派が、まだたくさんいることだろう。上野国では、河越合戦で落ちぶれた上杉憲政が反北条の合戦を画策中で、越後国の長尾景虎が参戦する様子もあるという。

 つまり、百年目の結城合戦に小田と佐竹が勝利すれば、関東中で窮地に立つ前公方派・上杉・里見・小田・佐竹らが、氏康の威信失墜に乗じて、総進撃することができるのだ。

 こうした情勢を俯瞰して戦略を立てられる人物は、関東ではそうそういない。考えられるのは前公方の側近たちと里見義堯だけだろう。ただ、義堯も関東諸士の気質と動向を把握できているわけではない。起死回生の戦略を成功させるには、小田氏治を始めとする関東諸士の実力と武運を信じるほかになかった。

事態に気づいた氏康

 北条氏康は、その大軍を房総平定に集中させていた。

 ところがそこへ弘治2年(1556)3月、佐竹義昭と不仲で、結城政勝と仲良しの陸奥国白河城主・白河晴綱が、氏康のもとへ使者を派遣した。携えられた書簡には、「わたしは以前からあなたと仲良くしているのに、あなたが佐竹と同盟したと聞きました。どういうことでしょうか。ことによっては(結城政勝と相談して)あなたとの関係を見直します」と緊迫する内容が記されていた。驚いたのは氏康だった。義昭とは一度手紙を送り合っただけで、同盟関係を結んだ覚えはない。

 ここで氏康は、義昭の謀略にまんまと乗せられていたことに気づいた。義昭は氏康の油断を誘い、常陸方面に派兵しないよう虚報を流したのである。しかし、今ごろ気づいてどうなるだろう。時間稼ぎはすでに果たされてしまっているからだ。

 実際、すでに小田氏治は開戦準備を進めていた。

問われる常陸国のプリンス小田氏治の真髄

 昨今、「戦国最弱」と笑われがちな小田氏治だが、この時期は間違いなく、反北条方にとって関東随一の希望の星であった。その後の情勢を一変させうるキーマンであった。

 ただ、佐竹義昭は、結城方と通じる大掾貞国を警戒していたらしく、まだ軍勢を動かしていない。北条なしの政勝なら、氏治1人で大丈夫だと安心していたのだろう。

 だが、氏康には切り札があった。房総の後詰め兵力である。

 4月、武蔵国江戸城の遠山綱景富永政家が500余騎を連れて、結城政勝の膝下へと発向した。手切れをほのめかした政勝のため、残りの兵をすべて動かしたのである。氏康はさらに同国岩附城の太田資正と、下野国の佐野豊綱毛呂季忠にも参戦を要請した。彼らは小田氏治の企みを叩くべしと快諾して発行した。こうして数千の大軍が結城城へと参着した。政勝1人ではとても集められない大変な人数がここに揃った。

 氏康の威信が本物であることを、肌身を持って実感する政勝だったが、考えている余裕はない。今は小田と佐竹が対策を練る前に、小田領へと押し進むのが最善の策だった。彼らは小田氏治の最前線ラインにある海老ヶ島城へと発行する。

 今回は、小田氏治が関東最重要のキーマンだった頃を見てもらった。次回はこのすべてを失う海老ヶ島合戦の詳細を見てもらおう。

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