唐沢山城跡(栃木県佐野市) 撮影/乃至 政彦

(乃至 政彦:歴史家)

 長尾景虎(上杉謙信)の前に立ちはだかる相模国の北条氏康。関東には北条氏に服属している領主が多く、景虎はかれらを自分の陣営に鞍替えさせるべく、自発的に味方となるよう工夫する必要があった。そんな景虎が北条と戦う以前、 味方を救うべく敵中突破したという伝説を検証する。

越相大戦前夜

 永禄2年(1559)夏、越後国の長尾景虎(のちの上杉謙信)は、京都で将軍・関白と意気投合して、関東甲信越の王者となる戦略を立てた。もちろん綺麗事だけで、東国をまとめることはできない。武力行使、脅迫交渉など荒事によって覇者となる覚悟も求められる。景虎の行く先に立ちはだかる最大の敵は、相模国の北条氏康である。北条氏を討滅するか屈服させなければ、東国経略は成り立たない。

 この連載では、ここからの越後国と相模国の戦争を「越相大戦」と呼ぶことにしよう。

 関東には北条氏に服属する領主が多い。かれらを残らず自分の陣営に鞍替えさせる必要がある。それには、東国の現地将士が自発的に味方となるよう工夫するのが望ましい。さて今回は越相大戦そのものを見る前に、ある伝説に触れ直してみたいと思う。

 それは景虎が、味方の城を救うため、敵中突破したという有名な逸話である。

現代の敵中突破伝説

 まずは現在の通説を、簡単に紹介しておこう。

 下野国の唐沢山城主である佐野氏は代々にわたり、古河公方に仕えてきたが、足利晴氏が北条氏に屈服すると、関東の諸大名がそうしたように、佐野氏もまた北条氏に属することとなった。

 そこへ長尾景虎が関東に進軍するという話が伝わると、城主・佐野昌綱は反北条氏の姿勢を取り始めた。すると、北条氏政が3万5000の大軍を率いて、唐沢山城を攻囲する。

 事態を聞いた景虎は、佐野氏救援のため、1万3000の兵を連れて、越山を開始した。せっかく味方になってくれるという佐野氏を見捨てるわけにはいかない。焦る景虎は、城の近くに迫ると、わずか12騎の手勢を連れて、その様子を見るため現場に急いだ。するとそこには物凄い大軍が孤城を取り囲んでいた。籠城する将士の気持ちを思うと、一刻の猶予もならない。昌綱を身を案じた景虎は、馬腹を蹴った。

現在通念される上杉謙信による唐沢山城後詰のイメージ。「適中突破」したとされる。作成/アトリエ・プラン

 北条氏政は、余裕の陣構えであった。

 佐野昌綱に迎撃する力がないことはすでにわかっている。さりとて慌てて降伏もしないところから察するに、家督を継いで間がない当主なので、家中の意見をまとめきれず、この惨劇を招いてしまっただけであろう。唐沢山城救援のため、越山するという痴れ者も、その人数は北条軍の半分以下、あるいは3分の1程度と見られる。景虎の人数を見れば、佐野氏の家臣たちも肩を落とすに違いない。そうすれば、すぐ決着がつく。

 氏政は勝利を確信していたであろう。

 そこへ、何かが現れた。12騎──。歩兵を含めてたった4、50人ほどである。それが突き進んでいた。先頭には『無』の旗が掲げられていた。知る人ぞ知る長尾景虎の戦旗であった。事態を知った氏政は驚いたが、すでに後の祭りである。

 咄嗟のことで、雑兵たちも動かなかった。敵か味方の判断がつかないのか、手出しすることなく、突進する一団から距離を置いてしまったのだ。こうして景虎の直属部隊は、3万5000の北条軍を突破して、難なく唐沢山城へと入り込んだ。

 北条軍のある部将が「まさに夜叉羅刹とはこの事なるべし」と言葉を漏らした。指揮系統の裏を突いた見事な敵中突破策であった。

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敵中突破伝説の真偽

 以上が、長尾景虎の唐沢山城にまつわる武功伝説の一つである。

 この話は、小説やゲームだけでなくノンフィクションの読み物でもよく紹介されて、人々の血をたぎらせている。

 ただ、わたしはこの敵中突破伝説を、史実として実際にあった事とは思っていない。それはこの行動が一次史料(同時代史料)にないからではない。わたしはいわゆる二次史料(後世に書かれた文献)であろうとも、検証すれば事実である可能性が高い逸話があると見ている。だが、この伝説は、実はそうしたレベルを超える大きな誤謬があるのだ。

 それは、昭和または平成になって生じた史料の誤読である。

 この伝説の参考文献とされる軍記は多いが、それ以前この伝説がどう語られていたか、明治時代の『名将言行録』を見てみよう。紙幅が限られているので、内容は意訳する。

永禄2年(1559)2月、北条氏政が兵3万をもって佐野昌綱の栃木城(唐沢山城の誤り)を攻囲した。景虎(本文では「輝虎」)は兵8000を引き連れて救援に現れた。城が危ういと聞いた景虎は、「我が軍は我に劣らぬ侍大将が多い故、安心である。それよりも佐野の城が心配だ。まず我だけで城に入り、力添えしてくれよう」と、鎧も着けず、黒い木綿の胴服だけで十文字の槍を手に、わずか23騎のみを引率して、氏政の陣前を、馬を静々歩ませて通り過ぎた。そして城の中に入り込んだ。北条軍は「夜叉羅刹とは、これなるべし」と恐れて、近づく者すらいなかった。氏政は囲みを解いて撤収した。やがて景虎は門を開いて追撃したが、氏政は一度も応戦しなかった。

 はじめに断っておくと、永禄2年(1559)2月に景虎は関東に出ていない。だから、この記述は冒頭から間違えているのだが、そもそも『信長公記』首巻も桶狭間合戦の年次を史実の永禄3年(1560)ではなく、天文21年(1552)と誤記しているのに桶狭間研究に必須の基礎史料とされている。景虎が唐沢山に駆け入る事件があったとして、こんな状況が起こり得るのは翌3年だけだと思うが、ここでは年次の比定を問わず、本質のみを突いていこう。

 さて早速だが、明治期の認識と、昭和・平成の敵中突破伝説の何が異なるか、一読して気づいた方もおられることだろう。では、今からその答えを言ってしまいたい。読み返して貰えればすぐにわかるが、景虎は「敵中突破」などしていないのである。

 しかも景虎は、「氏政の陣前を、馬を静々歩ませて通り過ぎた」とある。景虎の一隊はゆっくり、テクテクと昌綱の城まで歩いて進んだわけである。すると、この伝説のイメージは根本から異なってくるだろう。

 なお、『名将言行録』は、それまでに描かれた軍記に取材して、それらにある逸話を網羅的に紹介する本である。この逸話は、有名な軍記『関八州古戦録』に記されているほか、佐野氏の系図などにも掲載されていて、江戸時代にはかなり有名だったと見られる。初出史料と思われるのは、武田方の軍記『甲陽軍鑑末書』下巻之上である。

 これらの文献を比較検討してみると、その人数や説明文に差異はあるものの、景虎が静かに馬を歩かせて入城したという記述はどれも一致していて、「敵中突破」に読める描写はどこにもない。すると、つまり「敵中突破」伝説は、現代人の誰かが史料を誤読したか、あるいは逸話の又聞きなどにより、誇張されたエピソードだと言い切ることができる。

 この逸話を「敵中突破」に曲げてしまった人は、おそらく景虎を美化したいとかそういう意図は別になかっただろう。有名な逸話や伝説にはこういう意図せざる意識の齟齬により、面白おかしく変化することがあるので、注意が必要だ。

 ここでは「敵中突破」ではなく、「唐沢山に静かに馬を歩かせた」話のリアルを追求して、景虎と氏政と昌綱の心理を推察することにしてみよう。

関東の分かれ目

 永禄3年(1560)、越後国の景虎が関東に進発した。越山の開始である。

 景虎は関東管領・上杉憲政を奉じていた。憲政さまを関東にお戻し申すということ、それだけがこの時景虎が掲げられる唯一の大義名分であった。

 佐野昌綱は、おそらく去就に迷っていた。この時すでに関東は古河公方の外戚で、関東管領同然の北条氏康が仕切ることになっていたからである。ただ、氏康は前公方と確執があり、これまで何度も揉めていた。関東諸士も不満を溜め込んでいた。

 そんなところへあの武田晴信(信玄)と互角以上の勝負をする景虎が乗り込んでくることになった。しかも憲政の帰還を標榜している。安房国の里見義堯など、景虎派になることを明言している群雄も多い。

 当然、氏康も何をすべきかわかっている。今こちらの一派に属する群雄が、景虎派へと転がっていくのを阻止するのだ。有力大名の佐野氏が裏切れば、雪崩れを打つように同調者が続発するだろう。そこで家督を相続したばかりの氏政を派遣する。狙いは二つ。

 第一の狙いは、昌綱に釘を刺すことだ。「景虎に味方したらわかっているだろうな」と脅しを入れる。第二の目的は、景虎が近陣したら、昌綱と手を組んでこれを迎撃することだ。合戦に勝てなくてもいい。佐野氏が裏切らなかった既成事実を作れれば、関東諸士の離反を抑止できる。

 ここで注目すべきは、唐沢山城の縄張りである。実際に現地を歩いたことのある人はもうわかっているだろう。この地はなかなかの巨城で、3万程度の軍勢で完全包囲することなど不可能である。それに城門付近(大手口)は、大軍を展開できるほど広くないのだ。北条氏の狙いが攻撃ではなく、脅しにあったとすれば、城門の前に大軍を置くのは敵対行為となり、完全なる愚策となる。

 すると、唐沢山城は大きな脅威に晒されていなかったことになる。よりはっきり言うと、北条軍は、城から飛び道具も届かないぐらいの安全地帯に布陣して、寝泊りしていれば十分だった。こうした緩い攻囲が当時の城攻めのセオリーだった。もし昌綱が「いやいや、我らははじめから一貫して北条派です」と友好姿勢を見せてきたら、すぐさま人質を取り、景虎迎撃の先手に向かわせるだけである。

 そこへ景虎は現れた。その数21騎。どうみても合戦する人数ではない。無防備と言っていい。城から距離を置く北条から攻められる心配はないにしても、城内から佐野軍が大量に打ち出てしまえば、命を取られるかもしれない。だが、景虎はそんなことお構いなく、馬を悠々進ませた。城門まで到達すると、これを開かせ、唐沢山城内に入った。

 一部始終を見ていた北条軍は作戦の失敗を悟り、早々に撤退した。昌綱は景虎派だったことが確定してしまったためである。

昌綱の心を奪った景虎

 この逸話の本質は、景虎が北条の大軍を恐れなかったというところにはない。そうではなく、味方である佐野昌綱を信じて疑わず、その離反を防いだことにあるのだ。

 繰り返すが、この逸話が史実かどうかを確認することは難しい。しかし、景虎の性格をよく表す逸話であることは間違いなく、史実の景虎はこういうことを平然とやってのける人物だという定評があればこそ、定着したものと見ていいだろう。

 いざとなれば、我が身をもって信義を示し、相手の心意気を摑み取る。こうした命懸けの決断力は、豊臣秀吉が丸腰同然で敵の陣営に入って交渉事を進めたという故事にも通じる。ここから状況は一変した。関東諸士はことごとく北条派から長尾派へと転向して、北条の居城である小田原城へと押し寄せることになったのである。

『上杉謙信がやってきた』(佐野市郷土博物館、2015)より推定した長尾・北条両軍の布陣図。史料の記述に基づいて見なおした長尾景虎による唐沢山城後詰のイメージ。景虎は敵前をまかり通り、「しずしず」と入城。作成/アトリエ・プラン

 

乃至政彦『歴史の部屋』

 

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