写真:宮田永明/アフロスポーツ/bj-league 2005

(乃至 政彦:歴史家)

 日本三大奇襲のひとつでもある「河越合戦」。上杉憲政と足利晴氏の連合軍に、北条氏康が約10倍もの兵力の差を覆して勝利した戦いとして名高いものの、いまだ不明な点が多い。この戦いがどのようなものであったか、大敗によって人生が暗転した上杉憲政を軸に検証する。

河越合戦は氏康と誰の戦いだったのか?

 日本史上の戦乱や肖像画が、通説からひっくり返る例が増えてきた。たとえば関ヶ原の首謀者は、石田三成ではなく、毛利輝元だった。元亀争乱の信長包囲網も将軍・足利義昭が画策したものではないことが見えてきた。家康の有名なしかめ像や、書籍の表紙でよく見かける光秀の肖像画が、それぞれ無名の別人だったことも過去(実は別人?確証のない戦国武将の肖像画)に述べた。

 上杉憲政についてもつつがなくに家督を継いだお坊ちゃんではないことが明らかになっている。かれは子供時代、ひょんなことから反乱軍に担がれて管領職に就いたのだった。不幸ないきさつから当主になった憲政だったが、それでも高い理想を胸に育みながら大人になっていった。

 さて、その憲政の人生を大きく暗転させた河越合戦の大敗が、どのようなものだったのか。これを今から見直していきたい。

古河公方足利晴氏の参戦

 前回述べたように、天文14年(1545)の河越城攻囲には、憲政の主筋にあたる古河公方・足利晴氏が、最初期から参加していた。公方の配下である憲政に、晴氏を強制的に連れ出す権限はない。自然に考えて、これは晴氏が憲政と計画して企てた合戦である。つまり憲政はこの城攻めで、北条氏康と対決する意思があったけれども、進退の決定権は総大将たる晴氏にあり、河越合戦は「憲政vs.氏康」ではなく、「晴氏vs.氏康」または「公方・両上杉連合vs.北条」の構図でスタートしたのだ。

 傍証として、かつて憲政は「君(公方)」のため、「民」のため、氏康と「決戦」するつもりだと願文に書いたことがある。憲政が、公方のため氏康と戦うと明記したことと、その後、晴氏が氏康打倒のため挙兵した事実から、晴氏と氏康の間に確執があったのは間違いない。晴氏と宿老たち(特に簗田氏)は、憲政を頼むべき忠臣と認め、河越攻めの準備をその双肩に託したのである。

河越合戦の参加人数

『甲陽軍鑑』によると、このとき憲政は関東諸士を大々的に動員し、「八万余」の大軍を集めたと言われている。しかしこの人数には疑問がある。

 なぜなら、この合戦においてより信頼できる史料『太田安房守資武状』(河越合戦に参加した太田資正の息子の覚書)を見ると、憲政らが河越城を攻めていたところへ北条軍が現れ、連合軍が「前後」から「包囲」されたことが確かめられるからだ。河越の籠城兵は約3000人。氏康の動員人数はどの史料を見ても8000ほどが限界。この人数で、氏康が連合軍を「包囲」できたとすれば、総数は通説の半数もいなかっただろう。もし本当に10倍もの差があったら、戦後の氏康はそれをもっと大々的に宣伝材料としたはずだが、そのような形跡は何もない。

 公方・両上杉陣営に参戦していた人物で確実視できるのは、当時の書状や覚書に記録される太田資正、小田政治(氏治の父)の代官・菅谷隠岐守、この合戦で戦死した憲政馬廻の本庄宮内少輔・原内匠助・倉賀野三河守、公方家臣の難波田弾正左衛門(善銀)・小野因幡守である。討ち取られた連合軍の人数は「三千余人」と記録されるので、それ以上の人数がいたことは間違いないが、それにしても『甲陽軍鑑』の人数差が何を根拠としたのかは詳らかではない。

 ちなみに河越合戦は、川中島合戦や国府台合戦のように、何度も同じ陣営で繰り返されている。もちろんその参加人数や規模は合戦によって異なっている。この合戦の7、8年前の天文7年(1538)の河越合戦で、「両上杉軍は常・総・房・野州の士卒を催した。(両軍は)およそ八万六千余(の人数で対峙した)」という記録がある。しかもこの人数は上杉と北条の総合計であるはずなのだが、『甲陽軍鑑』の記述はこの情報を混同してしまい、上杉憲政8万vs.北条氏康8000人の構図を作ってしまったようである。

 片方の陣営だけで8万人を動員できたら、関ヶ原クラスの合戦である。そんな大軍がこの時代の関東で、それも片側の陣営だけで作れるはずがないのだ。なお、『甲陽軍鑑』は意外にも北条関連の記述に間違いが目立っている(早雲を「素浪人」出身と書くなど)。

 このときの上杉憲政は、たしかに連合軍を動員したが、先学が指摘するように大規模ではなかったのだろう(久保田順一『上杉憲政』戎光祥出版)。

本当は弱腰だった氏康の交渉

 河越合戦は、一般的な解釈によると、北条氏康が強気の上杉憲政との交渉に平身低頭の姿勢を装って油断を誘い、相手を浮かれさせたところで、奇襲攻撃を仕掛けて、大勝利したことにされている。だが、氏康は本当に憲政と交渉したのだろうか。

 当時のものと思われる長文の北条氏康書状に、その実態が見える。この合戦はまず憲政が河越城を攻めることから開始された。ほどなくして公方を現地に招き入れた。この時点での主導者は憲政である。この氏康書状を読むほとんどの研究者たちは、「公方は憲政に乗せられた」と解釈している。

 だが、そうではない。公方は、熟練の宿老たちと行動をともにしており、独断で出馬してはいないのだ。この合戦は公方およびその側近と憲政の共謀で始められたと考えるのが自然だろう。

 こうして公方・足利晴氏が着陣した。氏康書状には、ここから先の交渉内容が書かれているがそのやりとりは氏康と憲政でなく、氏康と公方(および側近たち)の間でのみ行われている。合戦まで憲政の名前はまったく出なくなる。憲政は交渉の主体ではなくなったのだ。

 まず氏康は、降参を申し入れ、公方に憲政との同陣をやめるよう懇請した。すると公方は氏康の提案に半ば納得して、戦いをやめるとの誓書を送ってきた。

 ここまでの交渉は公方が出馬する前ではなく、そのあとのことである。なぜなら、氏康が関東と交渉する余裕ができたのは、公方が着陣したあとだったからだ。

 時系列で見てみよう。8月に今川義元は駿河国の北条領を脅かしたが、9月22日に氏康ととりあえずの「矢留」をした。そのすぐあとの9月26日に憲政が河越城へ進軍した。ここへ公方も参戦を表明。公方は10月27日に着陣する。氏康は10月15日に、武田晴信から義元および憲政との和議を打診され、これに応じる構えを見せた。交渉はとても長引き、氏康は12月9日、義元が欲する駿河国の自領を目の前で譲り終えた。この日まで氏康は現地に滞在し続けていた。

 公方との交渉はこのあとすぐ始められたのだろう。公方は氏康の説得に応じて、一度引き上げた。このとき、氏康が何を交渉材料にしたのかは不明だが、諸史料から推測すると、かつて亡父が公方から任じられた関東管領職の返上を申し出たと思われる。公方は氏康より憲政を管領職に戻したかったのである。

 氏康は公方の返事にとても安堵したという。ところが、公方の側近たちはこれを見て、氏康を脅せばより多くのものを引き出せると考えたようだ。かれらは公方に強硬な意見を出して、再度の河越攻めに出馬した。しかも今度は糧道まで断つという念の入れようだった。

 氏康は愕然とした。誠意を込めた交渉努力がすべて無に帰されたのだ。

太田資正の兄と菅谷隠岐守が交渉

 ようやく現地に現れた北条氏康は、再び公方に許しを請い願った。氏康の交渉材料は、もはや河越城ぐらいしかない。ここを明け渡すので、城内の将士ばかりは助けて欲しいと願い出た。これが天文15年(1536)春の頃だろう。同年の3月7日の同時代史料を見ると、ここで興味深い人物が登場する。謙信越山後、一貫して反北条派の急先鋒となる太田資正その人の兄・全鑑である。

 氏康は全鑑と交渉し、合力の約束を得たのだ。通説では、このときの手紙の内容を、氏康が全鑑の調略に成功したと解釈されている。だが、氏康にはまだ決戦する気はなかったはずである。氏康は全鑑に和平交渉の協力を依頼して、快諾を得たのだ。

 氏康は城内の将士を救うため、あらゆる方面で努力を重ねていた。

 さらに氏康は、関東連合として常陸国・小田政治から派遣された菅谷隠岐守にも使者を送った。その布陣地が糧道を塞いでいたからである。だから、何としても布陣地を移動してもらう必要があった。

 だが公方の側近たちが秘密交渉に気づいた。糧道の壟断は連合軍にとって最大の交渉材料である。大軍を連れる太田党が北条擁護に立たれても面倒である。公方たちは氏康が砂窪まで進んだのを見て、危機感を募らせた。そこで諸軍を進ませ、決戦の姿勢を見せることにした。しかも、かれらは「このような交渉には応じない。城兵は皆殺しにする」と宣言したらしい。

 4月20日、河越合戦の当日である。

 氏康の堪忍袋の緒がここで切れた。

河越合戦の模様

制作/アトリエ・プラン

 氏康は、公方に宣戦布告の手紙を送りつけた。そしてその内容を部下たちにも言い聞かせた。自分たちに非がないことを確かめさせたのである。その上で公方軍に接近した。近場に憲政の手勢が見えた。氏康の動員人数は8000人。連合軍はその倍ぐらいいただろうが、実数はやはりわからない。氏康が「かかれ兵ども」と軍団扇を挙げて下知すると、将士らは「わが命は義によって軽し」と勇み立った。

 自らの身命を捨てる武士は死兵である。河越城の北条綱成は、死兵が連合軍を押し始めたのを見て、急いで門を開き、その背後を襲った。公方と憲政も覚悟を決めて馬を蹴る。こうして死闘が始まった。

 約一時間の交戦があったという。この戦いは「河越夜戦」と呼ばれているが、この名は江戸時代になって、氏康が10倍の敵に勝つには夜戦(あるいは夜明け前)でないと不可能だとする考えから生まれた伝説だろう。しかしこの合戦は氏康が交渉決裂後に宣戦布告状を送ったその直後に行われているので、日が沈みかけてから行われた可能性がある。

 やがて憲政の隊が敗北した。主戦派だった公方の側近も討たれた。氏康が勝利したのだ。公方と憲政は追撃を振り切り、自領へと退避した。

 戦後、氏康は公方側近の簗田氏に向けて、合戦の経緯と自身の大義を書き記す手紙を送りつけた。その内容は「公方さまは側近たちの意見に惑わされて、憲政に味方しただけだから、責任は問わないが、今後はその身の程をよく考えてもらいたい」という主旨である。氏康は実妹の夫である公方に責任を取らせるつもりはなかったのだ。

 河越合戦が「憲政vs.氏康」だったとする構図は、氏康の戦後処理によって生まれた。合戦の主催者が、その責任問題のため、あとから入れ替わる例は、武士の時代にしばしば見受けられる。生き残った公方と側近たちは、みんな氏康の威光にひれ伏した。

 こうして憲政は、公方ならびにその側近たちの采配のまずさを、一人で背負わされることになったのだ。その後、話に尾ヒレがついて、憲政は8万以上もの大軍を催し、小勢の氏康を侮って、油断を衝かれたという“愚将伝説”が作られていくことになる。憲政が敗軍の一将だったのは事実だ。しかし、現代人までもが、敗戦の責任をかれ一人に背負わせるべきではないだろう。

『謙信越山』特設ページ
https://jbpress.ismedia.jp/feature/kenshinetsuzan