大人気シリーズ「謙信と信長」完結。

戦国最強武将の「知られざる」戦い。一次資料をもとにその姿を解き明かす大人気シリーズ。

ここまでのあらすじ

『謙信と信長』目次 

【最新回】―(36)上杉軍と織田軍の手取川合戦
 ・謙信が信長出馬を確信していた理由
 ・秀吉の「帰陣」
 ・緒戦だけで終わった手取川合戦
    ・一級資料で省かれてしまった理由
 ・著者メッセージ
手取川古戦場の碑 写真/フォトライブラリー

謙信が信長出馬を確信していた理由

 ただ、やはり信長が手取川にいたかどうかを判定するのは困難である。

 信長はこの頃、摂津大坂本願寺の陣地から大和信貴山(しぎさん)城に無断撤退した松永久秀・久通父子の説得に当たっていた。手取川合戦前日の二二日、信長はようやく大和の岡周防守(おかすおうのかみ)に朱印状を発して「成敗を加うべく候」と松永討伐を命じている(信長文書七三六)。そこからたった一日強で、加賀手取川南岸まで移動するとして一八〇キロメートルほどであるから、信長なら不可能でもないだろう。

 信長の性格を鑑みれば、自ら救援に向かって当然である。だが、そもそも柴田たちの軍勢の現在地をこのタイミングでリアルタイムで把握して目的地まで迷わずに辿り着くことができるのか疑問である。

 では、なぜ謙信が合戦直後まで信長の出馬を事実として、これを多方面に書き通していたのかという問題が残ってしまう。

 ここからは少し陰謀論めいていて笑いを集めるかもしれないが、思い切って書いてしまおう。あらかじめ謙信は信長出馬の罠を仕掛けており、これが首尾よく進んだと見ていい状況に触れられたのではないだろうか。

 閏七月八日、越中魚津に入った謙信は「信長出張之由、申し廻り候わば、累年之望、この節に候」と、「申し廻り」すなわち人伝(ひとずて)の情報で信長出馬を知ったことを、飛騨の河上定次(かわかみさだつぐ)に伝えている(上越市史一三四四)。謙信は、何としても信長の首を獲りたいと考えており、今回ここにその「実否」を決定づける覚悟でいるとの決戦意欲も伝えている。

 ここからの謙信は、信長出馬をほぼ間違いのない事実として発言と行動を進めている。よほど信頼できる筋からの情報だったのだろう。民衆の噂話や密偵の報告からでは、謙信もここまで確信を得られまいが、もしこれが上杉と織田の両家に通じる有力者からもたらされていたとすればどうだろうか。私はこれを上杉家臣の本庄全長と、出羽の伊達輝宗の両名からこっそり伝えられたものと考える。

 これより少し前の七月三日、信長は輝宗から鷹を贈られた(「七月三日、奥州伊達御鷹のほせ進上」/『信長公記』)。その後、信長は輝宗と伊達家臣に書状を送っており、ここで社交辞令を述べることなく、輝宗主従が本庄全長と相談して、信長の謙信討伐に尽力するよう伝えている。信長からこっそり提案した計画ならば、もう少し具体的な説明を書き記したであろう。あるいは具体的説明は使者の口上で伝えると書いたはずである。だが、そのような文章はないので、輝宗側が謙信討伐を提案したものとして読むべきだろう。

 そしてその輝宗は、七月二八日付書状で謙信に「賀州口出馬」について「御本意疑いなく候」と述べている(上越市史一三四二)。輝宗は、七月に信長のもとへ馬と使者を上らせ、そこで、信長に「上杉家臣・本庄全長に反意あり、自分もこれに応じるゆえ、共に謙信を討伐されたい」と伝え、信長が合意するのを確認して、これを謙信に伝えたのである。

 これは謙信が本庄全長に指示した権謀だろう。

 かつて全長は謙信を相手に挙兵して、約一年持ち堪えたあと、輝宗の仲介で降伏した経歴がある。全長は謙信に降伏する際、息子の千代丸(顕長)を謙信の側に「出仕」させることにした。このため、謙信との主従関係は今や緊密である。しかも謙信は千代丸に姉の三女を娶せており、本庄父子をとても厚遇していた(『藤戸明神由来』)。これで全長に謀反を企む動機などあるだろうか。

 加えてこれまで謙信は輝宗と対立したことがなく、輝宗が越後への領土的野心を見せたこともない。謙信からは「もし本当に信長が越後を攻めることになれば、遠慮なくそうしてもらいたい」などと伝えて合意を求めたのであろう。そして全長と輝宗は、最後まで謙信を裏切らなかった。

 私は陰謀論者の汚名を被りたくはないので、“謙信が遠征を終える頃まで信長出馬を信じていた理由”をこれ以外の方法で説明できる方がいたら、鞍替えしたいと思うことを、保身のために付言しておく。

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