北条氏の軍制改革

小田原城

 北条軍でも信玄が導入した五段隊形の採用を推進することになるが、北条軍はその前に基本的な人数と武装の整備に注力するところから着手しなければならなかった。

 弘治2年(1556)3月、謙信が関東に来寇する4年前、北条氏康は伊波大学助と伊波修理亮⻁の二名に発する朱印状(『戦国遺文後北条氏編』506号)において、知行に基づいた歩兵と騎兵の人数を指定するとともに、不足があてはならないと注意している。

 このときはまだ、歩兵の武装について内訳が示されておらず、兵科別編成への志向は見えない。文中に、ちゃんと武具を整えた家臣を連れてくるよう指示があるものの、内容の具体性を欠いていることから、謙信越山以後ほどの緊張感は生起していないと見られる。

謙信越山後の北条軍

 こうした状況は、永禄4年(1561)を境に変化する。

 小田原を攻めた謙信が関東を去り、川中島で信玄を負傷させた直後の永禄4年(1561)10月、北条氏は家臣に対し、「備の中に兜をつけず、頭を布ですっぽりつつんだ裹武者がいる。雑人に似てとても見苦しい。これからは馬上・歩者とも
竹の皮笠でいいから着用してくること」と伝えている(『武家家法・三』531号)。戦闘員でありながら、非戦闘員(雑人)と見分けのつかない中途半端な武装
であらわれる者がいてはならないと厳しく戒めたのだ。...