
生成AIに、話し相手になってもらうという人が増えている。愚痴をこぼせば、否定せずに耳を傾けてくれて、やさしい言葉も返してくれる──気づけば、そんなAIとの対話が感情のよりどころになっていた。もしもこのような、AIへの“依存”が進んだとして、それは果たして悪いことなのだろうか?
最先端技術に関する倫理的・法的・社会的課題──「ELSI(エルシー)」の考え方をひも解き、社会とビジネスにおける実践的な視点を提供する連載「ELSI最前線」。今月は、臨床哲学や哲学対話を専門とする鈴木径一郎氏が、生成AIの技術的発展と依存の問題について論じる。(第1回/全3回)


大阪大学社会技術共創研究センター(ELSIセンター)特任助教。大阪大学文学研究科博士後期課程単位取得退学。専門は臨床哲学・哲学プラクティス。ELSIセンターでは、さまざまなアクターとの哲学対話の実践経験を用いながら、多数の企業との「責任ある研究・イノベーション」に関する共同研究に従事している。共著に『哲学対話と教育』(大阪大学出版会, 2021)。プロフィール詳細
生成AIの普及で改めて考える依存症問題
新たな技術の導入がわたしたちの社会にもたらすELSI課題(倫理的・法的・社会的課題)はさまざまにあるが、筆者がこのところ着目しているのはテクノロジーの進展と関連した「アディクション」あるいは「依存症」という問題である。
かつては、アディクションあるいは深刻な依存として、「中毒」という言葉などで言及されるのは、まずはアルコール依存症であり薬物依存症であった。また、物質ではなく特定の「行動」への依存である「行動嗜癖」であれば、まずはギャンブル依存症があげられただろう。
これらのアディクションについては、現在は病気として診断名もついている。また、いずれも人類の歴史の古くから問題にされていた事象であるらしく、紀元前1000年以前のインドで書かれたとされる『リグ・ヴェーダ』にすでにギャンブル依存とわかる人物が登場するという。
しかし、これらのある意味で昔ながらのアディクションは、深刻な社会問題であるが、一方でいまだに「誰か特別なひとの問題」、「自分とは関係ない問題」、「気をつけていれば避けられる問題」というように捉えられ、他人ごととされてしまいがちな問題でもある。
それに対して、近年のテクノロジー、とくにかつてない速度で変容していく情報環境と関連するアディクション——たとえば、大人だけでなく子どももふくめた「スクリーンタイム」の増加や「ソーシャルメディア依存」といった問題——に関しては、誰もに関係している問題、避けることの難しい問題として、どちらかといえば、自分ごととして捉えられているようである。
そして、生成AIの進化が、この「依存」問題についても新たな状況をもたらすのではないかと考えられはじめている。
これは、「依存」という、おそらく人間にとって根本的で切実である——と筆者は考えている——問題を考えてみる、いいタイミングであるかもしれない。
今回の記事では、テクノロジーと関連した「アディクション」あるいは「依存症」という問題を、誰もに関係するELSI課題としてとらえつつ、その対応を検討するうえでの前提となる「依存」という概念それ自体についても、いくらか理解を進めたい。
誰にとっても身近な「テクノロジー依存」
たとえ医学上の診断名としては採用されていないとしても、わたしたちの時代の新たな情報環境が同時に新たな「依存症」的状況をもたらしている、という感覚を示す言葉はもはやありふれたものである。
たとえば「インターネット依存」ということは2000年代にはすでに言われていたし、その後の個人向け情報デバイスやメディアサービスの進化と普及なども受けて、「スマホ依存」とか、「ソーシャルメディア中毒」というような言葉は、日常的に聞かれる言葉になっている。
自分もそうかも、と「SNS断ち」や「デジタルデトックス」を試みてみた人も少なくないかもしれない。関連本の出版も多く、関心度の高さを伺わせるが、まさに『私たちはなぜスマホを手放せないのか(原題:The distracted mind: Ancient brains in a high-tech world)』というタイトルの本もあるように、たとえ自分で問題だと思っていても、わたしたちがある種の行動をやめられないのにはそれなりの理由があり、気づけばわたしたちはまた画面を見つめている。テクノロジーに関連した依存についても、依存状況から抜け出すことは簡単ではない。
そんななか、これは歓迎すべき流れと言えるのかもしれないが、「その技術がわれわれにどのような依存を引き起こすのか」という問いは、新規技術の社会への導入にともなって検討すべき、重要なELSI的問いのひとつとして認識されてきているようである。
生成AIの「感情的利用」
今回取り上げるのは、今年の3月にニュースリリースされた、生成AIの感情的利用と私たちの精神的ウェルビーイングの関係についてのOpenAIとMITによる共同研究の事例である。この研究では、ユーザーの生成AIへの依存度や孤独感、問題的使用への影響といった内容が調査項目として設定されている。
このような生成AIの、とくに「感情的利用」の依存性に関する研究が進められていることは十分に理由のあることである。というのは、依存症の問題には、しばしば、わたしたちの「感情調整」の問題が関係しているという、これまでの依存症研究による知見があるからである。
わたしたちは、自分自身の激しい怒りや不安などの、耐え難かったり、あるいは社会生活を営むうえで克服する必要があったりする感情に対処しようとして、感情のコントロールに使えるような物質や行動を自分自身に処方することがある。このような依存症理解はカンツィアンらの提示した「自己治療仮説」によるものだが、これは、薬物依存症者の臨床の現場から導き出され、継続的に議論されている有力な仮説である。
そして、最近の生成AIは、そのテクストの構成においても、音声のニュアンスにおいてもますます人間味ある、パーソナライズされた、情感ある応答を可能にしつつある。そんななか、生成AIを対話相手に、たとえば友人のように愚痴を聞いてもらってはちょうどいい言葉をもらおうとしたり、あるいは、専門的なカウンセラーにするように相談したりと、生成AIを自分自身の感情のケアに用いようとする動きが、今後、より大きく拡がっていくということが考えられる。
そうなれば、私たちが生成AIへの依存度を高め、私たちの精神的ウェルビーイングに生成AIが大きな影響を与える、ということは十分にありそうなことである。
しかし、ここで、一つの疑問も浮かんでくる。私たちが、自分自身の感情調整のために、生成AIに依存する、ということは悪いことなのだろうか? むしろ、アルコールや薬物等への依存や、身の回りの人の感情労働への依存というようなことと比較すれば、生成AIへの依存は自分や他人への害が少なそうな方法であり、それで自分の感情の調整ができることになるのであれば、むしろいいことなのではないか?
このような問いにいくらかでも答えるためには、やはり、依存ということ自体についても、より深く考えてみなければならない。たとえば、依存というのは、それ自体として悪いことなのだろうか? それとも、良い依存や、悪い依存ということがあるのだろうか?
参考文献
- カール・エリック・フィッシャー『依存症と人類:われわれはアルコール・薬物と共存できるのか』松本俊彦監訳, 小田嶋由美子訳, みすず書房, 2023年. https://www.msz.co.jp/book/detail/09602/
- アダム・ガザレイ, ラリー・D・ローゼン『私たちはなぜスマホを手放せないのか:「気が散る」仕組みの心理学・神経科学』河西哲子監訳, 成田啓行訳, 福村出版, 2023年. https://www.fukumura.co.jp/book/b638300.html
- Mengying (Cathy) Fang, et al. "Early methods for studying affective use and emotional wellbeing in ChatGPT: An OpenAI and MIT Media Lab Research collaboration" MIT Media Lab, 2025年3月21日
- エドワード・J・カンツィアン, マーク・J・アルバニーズ『人はなぜ依存症になるのか:自己治療としてのアディクション』松本俊彦訳, 星和書店, 2013年. https://www.seiwa-pb.co.jp/search/bo05/bn793.html
【次回更新は6月11日(水)18時予定】
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