「歴史ノ部屋」でしか読めない、戦国にまつわるウラ話。今回は上杉謙信の死について。上杉謙信最後の遠征予定地は、関東であるとともに、畿内でもあった。謙信はこの両面作戦をどのように展開するつもりでいたのか。そして周辺の大名たちは、謙信の動きに無策であったのか。謙信最後の遠征を未曾有の危機と受け止め適切な対応を模索してしまったがため、窮地に追い込まれる武将もいた。松平元康と徳川家康である。(全3回)
春日山城の上杉謙信像 写真/フォトライブラリー

勝頼と謙信の和睦、そして氏政

 天正3年(1575)、10月15日、関東に入った謙信は、同月下旬に上野五覧田城(群馬県みどり市)を攻略すると「越・甲可被遂御和内々落着」と述べており、密かに勝頼と和睦したことを認められる(『上越市史』1272号文書)。勝頼はこれを氏政にこっそり伝えたらしく、氏政も北条家臣に「三和之儀、甲越両国者速相済」と、「三和」を前に甲越両国の和平が先んじて整ったと述べている(『戦国遺文後北条編』1886号文書)。

 義昭が強く要請する「三和」実現のためか、謙信と氏政は互いの紛争を避けていく。天正4年(1576)8月6日、氏政は義昭の命令に服し、「甲・越・相三和」に従う覚悟を決めた。 

 天正5年(1577)12月下旬、太田道誉 ・梶原政景父子と水谷(みずのや)勝俊が、織田の関東取次役である小笠原貞慶に宛てて「(信長様から頂戴した御書に)来年到関東御発向可有之由被顕」と記したように、信長の氏政討伐は既定路線と化していた(『信濃史料』巻14・221〜4頁)。関東現地からの要請もあり、三大名の動きを危険視していたのであろう。

 この頃、氏政は勝頼と妹の婚儀を進めたが、謙信も養子の上杉景勝と勝頼妹の縁談を進めていたとする所伝がある。

 この流れが順調に進めば、上杉景勝と勝頼妹、武田勝頼と氏政妹、氏政弟と景勝姉の婚姻関係が、政治的に機能することは間違いなかった。少なくとも謙信はそう踏んでいた。

七尾落城からの手取川合戦

 天正4年(1576)2月、能登畠山家の老臣七人衆が謙信に出馬を求めた。敵は織田軍ではない。一向一揆である。彼らは信長が自分たちの宿敵である一揆衆を追い詰めているので、今が撃滅のチャンスだと見ていた。七人衆は謙信の「御先手」を務めるとまで伝えてきた。

 果たして謙信はやってきた。だが、謙信はすでに本願寺・一向一揆との和睦を進めていた。足利義昭の要請であった。...