川中島古戦場にある上杉謙信像と武田信玄像

(乃至 政彦:歴史家)

「義の武将」あるいは「軍神」といわれ、抜群の人気を誇る戦国武将・上杉謙信。徒歩以外に交通手段のなかった時代、越後から関東へ何度も「越山」を繰り返した真の目的とは? 謙信に詳しい著者が一次史料と最新研究により、謙信の実像と関東の戦国史に迫る。

乃至政彦『謙信越山』

乃至政彦・著『謙信越山』発売!

JBpressの人気連載がついに書籍化。上杉謙信はなぜ、関東への遠征「越山」を繰り返したのか? 真相に迫るとともに、武田、北条など、多彩な東国武将が登場。戦国ファンならずとも必読の一冊。1700円(発行:JBpress 発売:ワニブックス)

 

 

三国峠を「十数回」越えた謙信

 三国峠は、越後国(えちごのくに)・上野国(こうずけのくに)・信濃国(しなののくに)のいわゆる「上信越」三ヶ国が交わる峠であることからその名がつけられている。

 越後国から上野国へ向かい、標高1600メートルほどの頂点に登るとこの上ない絶景が広がっている。背後を振り返れば、雲の合間に連山が黒々とそびえ立ち、前方には青々とした大地と水利が、目を潤わせる。対象的な両国の姿はまるで別天地である。

 そこから沼田の地を過ぎて赤城山の麓を横切れば、いよいよ関東平野が待っている。

戦国関東地図 作成/アトリエ・プラン

 三国峠には「御坂三社神社」(三国権現)があり、その境内に「三国峠を越えた人々」と題する石碑があり、「白雲禅師[鎌倉時代]」「堯恵法印[文明十八年]」「万里集九[長享二年]」「良寛禅師[文化]」「与謝野鉄幹[昭和六年]/与謝野晶子[同]」などと60人以上の人名が刻まれていて、どの人物も三国峠を渡った時期が記されている。

 だが、越後国春日山(新潟県上越市)城主の上杉謙信だけは違っている。「十数回」と、渡った時期ではなく回数が記されているのだ。徒歩以外に交通手段のない時代にこの往来回数は異様であろう。謙信は何を想って「十数回」も越山したのだろうか。

 この連載コラムでは謙信の関東越山を追っていく。

景虎インパクト

 謙信の越山はいつから始まったのだろうか。通説では謙信がまだ長尾景虎を名乗っていた永禄3年(1560)からだと言われている。しかし史料を見直していくと、実はそれ以前の天文21年(1552)にも越山している。ここではその様子を探れる範囲で探ってみよう。まずは一次史料(同時代史料)から実像に迫ってみたい。

 初回である本稿では、越後国春日山城の長尾景虎、下野国唐沢山城(栃木県佐野市)の佐野昌綱、上野国金山城(群馬県太田市)の横瀬(由良)成繁(よこせ(ゆら)なりしげ)が登場する。特に昌綱と成繁は、謙信越山にあたり重要な動きをなすキーパーソンである。

北条氏康の関東進出

 この頃、関東では相模国小田原城(神奈川県小田原市)の北条氏康が関東管領・上杉憲政の上野国平井城(群馬県藤岡市)を制圧した。さらに北方の越後国まで侵攻を企る勢いだった。

 それまで関東は古河公方・足利氏と家宰の関東管領上杉氏が統治する政体を取っていたが、天文15年(1546)の河越合戦で彼らは氏康に大敗した。ここから風向きが大きく変わった。

 氏康の姉妹を娶っていた古河公方の足利晴氏は、その子に家督を譲り、北条氏の外戚の座を得た。こうなると、北条氏は関東の副将軍も同然である。

 同時代の畿内では、征夷大将軍を擁する「三好政権」が天下政権を担っていた。これと並んで関東では「北条政権」と言うべき地域権力が屹立していたのだ。

 もちろんこれを快く思わない関東領主はたくさんいる。彼らは、越後国の才気あふれる若者に期待を寄せた。

 越後国を統一したばかりの長尾景虎である。景虎は「代々の軍刀」を自在に操る無類の戦上手、のちの上杉謙信である。越後国は他国の数倍に相当する潤沢な財力を誇り、武装も訓練も卓越していた。

 故郷を追われた憲政は、越後国へ亡命した。憲政が居城を取り戻してくれと懇請すると、景虎は快諾した。関東の領主たちもその動向に注目しはじめる。

長尾景虎はじめての関東越山

 天文21年(1552)5月、上野国へ遣わした者たちが戻り、景虎に現地の情勢を報告した。景虎は6月20日、すぐにも「上州(上野国)へ打ち入ろう」と予定を立てた。

 その翌月、景虎は速やかに武蔵国の北河辺・矢嶋(埼玉県深谷市矢島)に越後軍の「濫妨狼藉」停止を厳命する禁制を発した。越山は短期間のうちに終わった。帰国した景虎とその側近たちは8月から10月にかけて越山した部将たちに慰労の書状を発した。はじめての越山は無事に終わったのである。

 なお、このときの越山は同時代史料がほとんどないため、具体的な動向が不明である。このため、出陣は企画だけで実現しなかったという論者もいる。実際、米沢藩上杉家における公式の歴史書『謙信公御年譜』も同年の越山を記述していない。

 だが、先述したように、景虎たちは諸将に向けて、「今度関東御出陣遠路一入御陣労」「今度関東御合力儀、早速出陣、遠路一入御陣労」と関東越山を慰労する書状を発している。このため、越山が不首尾に終わったとは思われない。ここは素直に景虎の関東越山があったと見るべきだろう。

関東領主たちの記録に見える越山

 はじめての越山は、具体的内容を記す同時代の史料に乏しいが、ここではあえて近世の史料を参考に臨場的な仮説を提示してみよう。

 参考となるのは佐野氏の軍記『佐野記』(栃木県令写本)である。同書によると、景虎は同年4月、「安中越中守(越前守重繁?)」の先導で上野国へ乱入して、すぐに平井城を奪還した。その後、景虎は平井城に3000余人の兵を駐留させて、6月上旬に越後国へ「帰陣」したという。

 ただし当時の史料によると、景虎は6月20日になってもまだ越後国を出ておらず、月日が事実と相違する。これはおそらく永禄3年(1560)の越山と混同した誤記である。

 同書ではこの翌年、再び景虎が越山して、下野国佐野氏の唐沢山にまで足を運んだとされている。実際にはこれが天文21年の越山であろう。この記録を起点に、景虎と現地将士の動向を拾い出していこう。

 まず景虎は、7月から8月までの間に平井城を奪還、続いて上野国と下野国の境目を巡検することにした。上杉憲政はこのとき平井城に戻ったと思われる。

 だが、関東諸士にとって、越後出身の景虎は余所者である。いくら憲政を擁して大功を立てたと言っても、関東には関東の流儀がある。他国者の若造に大きな顔をされてはたまらない。

 ここで『佐野記』は、横瀬成繁の「足軽大将・金井左衛門佐」が「無礼」を働いたため、景虎に「たちまち討ち取られた」とあっさり記している。この事件はほかの文献で詳述するものがある。軍記の『上州坪弓老談記』[巻之上]と『新田老談記』[上]である。ここからその内容を見てみよう。

 景虎は、全軍を2列行進で突き進ませるのが好きだった。その兵数は2000余人。独特の行軍様式を関東でも押し切ろうとしたが、現地にすれば迷惑極まりなかった。なぜなら越後兵たちは地理不案内で道をはみ出し、田畑を踏み荒らしていたからである。

 これを見た上野国の地侍は、傍若無人とはこのことだと不快に思ったらしく、他国の若大将に向かい、嫌味たっぷりに礼儀を教えてやることにした。地侍の名は金井左衛門佐宗清(むねきよ)。上野国の金井城主・横瀬(のちの由良)成繁の足軽大将である。

金井宗清の抗議

 金井宗清は、景虎一向が、桐生筋から足利の八幡(足利市八幡町)を通るのを馬上から見下ろしていた。これに気づいた景虎配下の侍は、血相を変えて宗清に呼ばわった。

「そなたは何者か。これほどの大軍を恐れず、我らを馬上から見下ろすとは無礼ではないか」

 金井宗清はこれに強気の姿勢で返した。

「誰かと思えば、越後の国主ちんば殿の軍勢か。拙者は新田の金井左衛門佐で、この山の番所を守ってござる。ここから足利までは由良・(足利)長尾の支配する土地であるゆえ、景虎殿には家臣と味方たちに狼藉を思いとどまるよう申し渡されたい」

 これを聞いた侍は、宗清の言葉をそのまま主人の景虎に言上した。すると関東の天地に景虎の大きな笑い声が響き渡った。

「面白いが、気の毒なことだ。現地の大将たちがわざと無礼者を遣わして、この景虎を試しているのだな。ならば今後のためにも討ち取ってくれようぞ。ひとりも生きて逃すな」

 景虎が歩兵たちに命ずると、合戦支度が始められた。驚いた金井宗清は撤退を急いだが、追い込められて自害した。宗清の寄騎である野村源七郎と梅田半九郎は「ここが死に場所と見た」とばかりに奮闘したあと、目を合わせて番所に引き上げ、百姓たちを避難させた。この間に助けを求める早鐘が鳴り響く。

 早鐘を聞いた景虎は、身の危険を感じた。敵の増援を警戒してすぐさま小荷駄隊に混ざり、「六七十騎」で岡崎山へ移ったのだ。

 景虎はそこで「青龍の備(そなえ)(隊形)」を整え、乱れた軍勢を整え直した。景虎が得意とする諸兵科連合の隊形をなしたのだろう。俗にいう「車懸りの陣」で、敵軍が迫れば、小旗・弓・鉄炮・長柄鑓・騎馬などの諸兵科を連携させて、その陣形を崩し、一気に本陣奥深くへ突き進んで、痛打を与える戦術隊形である。

横瀬成繁の現実的決断

 続々と集まる報告を受けて、横瀬成繁は応戦準備を整えた。しかし慌ててはいない。動静を慎重に観察しながら、景虎の鋭鋒を避けたのだ。46歳の成繁は、老練な現実主義者であった。

 この間に景虎は上機嫌で佐野方の城へ移った。その素早い動きに舌を巻いた成繁は「口惜しい」と悔しがったというが、本音では胸を撫でおろす思いであっただろう。

 このとき、成繁は景虎と敵対するのは危ういと見たらしい。生き延びた野村源七郎と梅田半九郎を呼び出すと、褒美として永楽銭五貫を与え、自害した金井宗清を「あれの物言いは、景虎ほどの大将に慮外千万であった」と非難した。トカゲの尻尾切りである。こうして横瀬方は親景虎方として意見をまとめた。

 なお、群馬県桐生市広沢町には「金井神(かないかみ)」に茶臼塁を守った「金井左衛門佐墓」が、近代まで残されていたという。宗清の勇気は、主人に評価されなかったが、現地では一目置かれ続けたのである。

佐野豊綱と昌綱の判断

佐野昌綱像 栃木・大庵寺蔵

 さて、唐沢山の佐野方である。 

 その後、景虎は渡良瀬川を渡渉すると、迫間(はさま)(足利市迫間町)の山地で食事を摂った。そこから岡崎山に進むと、唐沢山城城主の佐野豊綱が、弟の昌綱を出迎えに派遣した。佐野氏は上杉氏家臣である。憲政のため、わざわざ越山した景虎を無視するわけにはいかない。筋を通して歓待することにしたのである。

 昌綱は景虎を唐沢山城まで警護した。城内に引き入れると、猿楽を催すなどして越後勢を3日ほど饗応した。この頃までに成繁らも景虎と和睦したようである。現地将士に並々ならぬ武威を示した景虎は満足して平井城へ戻り、その後、越後国へと帰陣した。

 このためだろう。同年9月11日、北条氏康は、景虎に同調した新田領と佐野領に放火を命じた。景虎とその与党を許さないと意思表示したのだ。

 なお、景虎は関東の占領地を継続的には支援しておらず、すぐ北条軍に取り戻されたようだ。その証左として、翌年末に北条氏康が上野国に禁制を発している。

 米沢藩の『謙信公御年譜』がこのときの作戦行動を一切記録していないのも平井城をあっけなく奪い返されたことを、早く忘れたかったからだろう。不名誉極まりない出来事だったので省略してしまったのである。

北条軍の反撃

 景虎はじめての越山は、一応首尾よく終わりを迎えた。出陣中、景虎は不安でいっぱいだったかもしれないが、哄笑とともに強硬姿勢を貫いた。

 この越山でその個性を発揮したのは景虎だけではない。その場その時の空気をよく見て、的確にダメージコントロールした横瀬成繁。機を見るに敏な佐野豊綱・昌綱兄弟。この騒動で群雄たち個性あふれる群雄の才覚が、それぞれ色鮮やかに輝いたのだ。

 長尾景虎はじめての越山は、上杉憲政を平井城へ戻し、周辺の群雄に睨みを聞かせることで終了した。景虎は「めでたし、めでたし。あとは任せたぞ」とばかりに引き揚げた。

 何事もなければ、景虎が再び関東に入る必要などない。だが──怒れる北条氏康はすぐに逆襲を開始した。平井城の憲政を再び圧迫したのである。横瀬と佐野もこれを止められない。追い詰められた憲政はまたしても越後国へ逃亡。平井城は二度奪われたのだった。

 これですべてはふりだしに戻る。天文21年(1552)の越山は、憲政の復権が目的だったが、それは「居城を取り戻す」だけで果たせないことが証明されたのである。

『謙信越山』特設ページ
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