山名宗全「大日本六十余将」より

 正規の軍隊が、素性の知れない武装集団を戦力として使う。

 そんな判断は、簡単には生まれない。

 では幕府はどうしてそこに至ったのか。興福寺門跡の日記に残る一日の記録から、金貸しの私兵が幕府の指揮を待って待機していた事実を読み解き、応仁の乱への導線をたどる。

著者・乃至政彦
歴史家。著書に『戦国大変 決断を迫られた武将たち』『謙信越山』(SYNCHRONOUS BOOKS)、『上杉謙信の夢と野望』(KKベストセラーズ)、『平将門と天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)など。書籍監修や講演活動なども行なっている。1974年生まれ。高松市出身、相模原市在住。

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幕府高官の伊勢貞親と足軽

 以下、早島大祐『足軽の誕生』(朝日選書、2012)に拠りながら、私見を伝えていきたい。

 応仁の乱で活躍し、敗死した足軽の指揮官・骨皮道賢は、幕府の「目付」であった。

 ここでいう目付は、「侍所」の所司または所司代に属する役職で、民衆の不穏な動きを警戒し、有事にはその鎮圧に派遣される、治安維持を担うものである。

 その目付に道賢を推挙し、任命する組織のプロセスは明らかにされていないが、土倉(土蔵。金融業者)を動員して徳政一揆の対応に当たらせていた伊勢貞親の交流範囲が、緊急の一時的な兵数増員に結びついたことは、想像に難くない。

 むしろそれ以外の可能性を考えることが難しいとも言える。

 前近代とはいえ、正規の政府・軍隊が、素性のしれない武装勢力を活用するという発想は、簡単には生まれない。

 まともな軍隊が機能するなら、眼前の紛争が激化しただけで、粗暴な荒くれ集団を活用しようと判断することはないだろう。

 ところがその発想に至る導線が、複数あった。

 まず、土一揆と土倉の動員である。

幕府侍所被官に指揮される土倉兵

興福寺/ PIXTA

 長禄元年(一四五七)、応仁の乱より九年ほど前のこと。...