最強なのに、NO.1を取れなかった謎の男、ジャンボ鶴田。彼の本質に迫る重厚なノンフィクションがSYNCHRONOUS(シンクロナス)でスタート!

 プロレスライターの小佐野景浩氏が、自身の著書『永遠の最強王者ジャンボ鶴田』(ワニブックス)に大幅加筆をしてお届けする、プロレスファン必見のシリーズ連載です!

 また「永遠の最強王者 ジャンボ鶴田」完全版のスタートに先駆け、書籍版「永遠の最強王者 ジャンボ鶴田」第1章、第2章、さらに著者・小佐野景浩が「完全版」スタートを記念して書き下ろした「藤波辰爾にとってのジャンボ鶴田」(※7月5日配信)を無料で配信。こちらもお楽しみください。

 紆余曲折を経て中央大学レスリング部に入部したジャンボ鶴田。

 今回は鶴田の大学時代を知る人物たちの証言から“最強王者”の実像を紐解いていく。

 中央大学レスリング部主将が語る入部秘話と大会の思い出。鶴田が勝てなかった男が語る“最強王者”の強みとは?

 ファン必見の大学時代からジャンボ鶴田“最強説”を考える。

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【プロレス好き必見!!】“最強王者”の実像に迫る
49歳の若さで急逝した怪物「ジャンボ鶴田」を描いた傑作ベストセラー『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』(ワニブックス)を大幅加筆。いまだ根強い「ジャンボ鶴田〝最強説〟」と、権力に背を向けた彼の人間像に迫る!さらにレスラー、関係者を招き「ジャンボ鶴田」を語り尽くす対談動画も配信予定!初回のゲストは「スタン・ハンセン」!

 

中大レスリング部主将・鎌田誠の証言

 「3年生の後半には、私はもうキャプテンになることが決まっていたので、監督と一緒にまず自衛隊の佐々木さん(佐々木龍雄・自衛隊体育学校でジャンボ鶴田にレスリングを指導した人物)のところに行って〝ウチの部に入れたいので、そういう動きをするから了解してほしい〞と。それから大学のほうに根回しをして〝今のレスリング部は選手層が薄くてギリギリでやっているけど、鶴田が入ってきたら優勝する可能性があるから、なんとか頼む〞と。そういうお願いをしていました。いろんなところから了解をもらって、正式に部員として迎えました」

 当時の中央大学レスリング部主将の鎌田誠の尽力で、鶴田は3年生の終わりに晴れて中大レスリング部の一員になった。

 実際、レスリングの選手としての鶴田の力量はどうだったのか? 鶴田は100㎏以上級、鎌田は90㎏で階級は違ったが、よく練習はやったという。

 「最初の頃はね、やっぱり線が細かったっていうか、フリースタイルでやったらすぐにひっくり返っちゃったりしてましたけどね。でも、レスリングっていうのは力だけじゃなくてフェイントかけたりしてスパッと入ったりしますから、そういうところはやっぱりバスケの選手だなっていう。普段はのろい感じだけれども、瞬間的にフェイントをかけて入るあたりは〝おっ!〞と思うところはありましたね。彼はボディビルなんかもやっていて、鍛えてからは技がかからなくなりましたよ」

 鶴田はフリーとグレコの両方をやっていたが、主にしていたのはグレコだった。

「フリーの場合、相手の下半身にバーンとぶつかってタックルで入り、それで倒すっていうのが基本中の基本なんですよね。でも、正直、鶴田はタックルがそんなに上手じゃなかったんです。グレコの場合は差しですね。相手の脇の下に手を入れてねじり倒すっていうのが基本です。鶴田はグレコを意識するようになってから差し技とかね、すかして腕を取って後ろに回るとかの立ち技が中心になりましたね」

 そして鎌田は、鶴田にグレコを勧めたのは佐々木ではないかと言う。

 「グレコを勧めたのは佐々木さんでしょう。当時、グレコの重量級の選手は、そんなに多くなかったんですよ。100kg以上の人は、せいぜい各大学にひとりいるぐらいですね。ウチは90kgが3人ぐらいいたのかな。だからライバルは10人ぐらいだったと思いますよ。それをマークしていけば優勝できるっていう頭があったんじゃないですか」

 100㎏以上級だから体重制限がない。私生活の鶴田は高校時代と同じように食べまくっていたようだ。

「100kg以上級になると、外国人選手では120、130がザラにいましたよ。鶴田は100ちょっと越えたぐらいだと思いますけどね。そんなに減量とかはしないで、計量するまで2〜3日間、3食のうちの1食抜くぐらいの調整でしたよ。そんなに体重が増えなかったと思います。もうちょっと増やしてもいい感じがしましたけどね。でも大食いでしたよ。ライスのお代わり自由の店を見つけてくるんですね。そういうのに付き合わされました。酒は弱かったですよ、たぶん。ちょっと飲んだら真っ赤になってましたからね。我々はビール飲んで焼き鳥食ってたけど、鶴田はちゃんと飯を食ってた。〝酒飲まないでよく食えるな?〞って。練習以外ではワイワイやるよりも本を読んでいたり、音楽を聴いてましたね」

 鶴田が中大レスリング部に貢献したのは、4年生になってすぐの72年5月16
日〜19日に東京・世田谷区立体育館で開催された東日本学生リーグ戦だ。

 Aブロック=中大、日本体育大学、早稲田大学、日本大学、慶應義塾大学、拓殖大学、Bブロック=専修大学、国士舘大学、明治大学、大東文化大学、東洋大学、青山学院大学で、それぞれのブロック1位同士が優勝を争う。ちなみにBブロックの専大の3年生には吉田光雄……長州力がいた。

 この大会で、中大は初戦で拓大にまさかの1敗を喫してしまったが、その後は全勝でAブロックで優勝。Bブロックで優勝した国士大と雌雄を決することになった。中大は7年ぶり10度目、国士大は初優勝をかけての総力戦である。

 ここまでの鶴田は、フリー90㎏以上級で早大の磯貝頼秀と引き分けた以外は全勝で、中大の優勝に貢献してきた。

 そして国士大との優勝決定戦。軽量級から順番に9階級試合が進められ、8番目の鎌田、9番目の鶴田を残した時点で、両試合共に判定勝ちでは総合ポイントが足りず、ふたり揃ってフォール勝ちしなければ優勝できないという状況に追い込まれてしまった。

 鎌田は相手が1年生だったこともあって、すぐにフォール勝ちできたが、鶴田の相手は4年生の主将。当時のレスリングは逃げてもあまりコーション(反則や消極的な戦い方への警告)を取られなかったため、相手が逃げる展開になった。

鎌田と鶴田の活躍もあり大逆転で東日本学生リーグ戦を制した

 「相手が逃げるようにマットの上をグルグルしたりするから〝逃げるな、戦え!〞って野次を飛ばしましたけど、最後は鶴田がトーホールドをかけていったんですよね。本来は瞬間的な技でスパッと投げるところを、鶴田はゆっくりかけていったんですよ。そうしたら審判がフォールを取ったからビックリしたんですよ。〝ああ、フォールだ!〞って。普通はあの技はフォール取らないんですよね。どっちかっていうと2ポイントとか3ポイントをもらう技ですから。でも、相手は逃げていたから審判にフォールを取られても仕方なかったんじゃないですかね。あれは感動しましたね。鶴田と抱き合って喜びましたよ」(鎌田)

 この時、Bブロックの専大が勝ち上がってきていたら、長州もフリー90㎏以上級に出場していたため、鶴田と長州の一騎討ちがアマチュアで実現していたことになる。

 ふたりがプロのリングで相まみえるのは13年後のことだ。

鶴田が勝てなかった男・磯貝頼秀の証言

 その後、鶴田は6月28日〜7月3日の茨城・笠間市体育館における全日本選手権のフリー100㎏以上級で早大の磯貝頼秀と同点優勝(直接対決は両者警告)、7月5日〜7日の千葉・佐倉高校における全日本選手権のグレコ100㎏以上級で優勝を果たす。ただし、この大会でも磯貝との対戦は引き分けに終わっている。

 高校3年生の時、同じ高校3年生でメキシコ五輪にレスリング97㎏以上級代表として出場しているのを見て、「よし、俺も次のミュンヘン五輪に出場するぞ!」と、目標を持つきっかけを作ってくれた磯貝とは東日本リーグ戦から3回連続引き分けになったわけだ。

 磯貝は、中学生の柔道大会で注目され、習志野高校の山口久太校長に直々にスカウトされて同校に進学してレスリングを始めた。

 当時、千葉県の高校でレスリング部があったのは佐倉高校と習志野高校の2校だけで、習志野高校は野球の強豪校として有名だったが、東京オリンピック翌年の65年度に創部したレスリング部にも力を入れていた。日本レスリング協会の八田一朗会長が、「レスリングを高校体育の正科目に」と尽力していた時代である。

 磯貝が習志野高レスリング部に入部した1年生の時には、中大レスリング部出身で66年の全日本選手権フリー70㎏級優勝の飛田義治が毎週1回コーチとして教えに来て、毎週土曜日には中大レスリング部に練習のために通っていた。2年生からは鶴田を教えた自衛隊の佐々木龍雄の同級生がコーチをやっていたというから、磯貝と鶴田には不思議な縁があったのかもしれない。
 
 67年8月のインターハイ(全国高校選手権)のフリー73㎏以上級で優勝、翌68年3月の全日本選手権のフリー・ヘビー級で2位(優勝は日大の滝沢信也)という成績を挙げて、高校生ながらメキシコ五輪の最終選考会に参加。五輪候補は3人ぐらいいて、1勝1敗という成績が続いたが、8月の最終選考会において八田会長の「高校生に勝てない奴を連れて行ったってしょうがない。勝てないだろうけど、将来がある磯貝をフリー、グレコの両方に出して経験させよう」の鶴の一声で代表に決まった。

 磯貝はメキシコ五輪でフリー、グレコ共に97㎏以上級に出場。その後、72年のミュンヘン五輪ではフリー100㎏以上級に出場した。

 鶴田のプロ入り後もレスリングを続けて、74年にトルコのイスタンブールで開催された世界選手権のフリー100㎏以上級で6位入賞、最後の五輪出場となった76 年モントリオールでもフリー100㎏以上級で6位に入賞した。

 磯貝は意外にプロレス界との関わりも深い。藤田和之、高橋義生が卒業した八千代松陰高校は山口久太が創立した学校で、磯貝は山口の要請でレスリング部に教えに行ってふたりを指導。早大では石澤常光(ケンドー・カシン)を指導している。

 また2004年4月から1年間、新日本プロレスの代表取締役社長を務めた草間政一は習志野高レスリング部の同期生。草間の社長就任以前にある関係者から「新日本の社長に推薦したい」という話があったが断ったという。

 現在、磯貝は千葉県レスリング協会会長及び早稲田大学レスリング部常任委員を務めている。早稲田の事務所に彼を訪ねてみた。現役時代は182㎝、106〜117㎏あったというが、中大レスリング部主将だった鎌田と同じく、今もがっしりとした立派な体格をしている。

「大学も違えば、鶴田はミュンヘン後にすぐにプロレスラーになって、僕は石油会社のサラリーマンになって、生きている道も違ったから、彼がプロレスラーになってからは会うことはなかったんですけど、筑波大学の修士論文を書いているということで、僕の会社を訪ねてきてインタビューされたんです。もう二十数年前になるんでしょうかね。大学を出てから鶴田と会ったのは、それが最初で最後でしたね」

アマレスの猛者としての面影が今なお色濃く漂う磯貝氏

 鶴田がフリー100㎏級でデビューした70年11月の全日本選手権では、磯貝は同階級で優勝。鶴田は3位になったものの、磯貝と対戦する位置までは行けなかった。

 翌71 年、鶴田は全日本選手権のフリー、グレコ共に100㎏以上級で優勝、国体でもグレコの100㎏以上級で優勝するが、鶴田と磯貝の対戦記録はない。磯貝は70年12月のアジア大会に出場してフリー100㎏以上級で2位になったが、帰国後に肝炎を発症。長期欠場を余儀なくされていたのだ。

 大学4年の72年、ミュンヘン五輪の年に鶴田と磯貝はついに顔を合わせる。五輪に向けた候補選手の合宿が東京・新宿区百人町のスポーツ会館で行われて、そこにふたりとも招集されたのである。

「僕が鶴田を認識したのは、その合宿あたりですかね。格闘競技の人はけっこう激しいですけど、鶴田はそんなに激しい性格ではなかったと思いますね。合宿ではメキシコ五輪の時にお世話になった佐々木龍雄さんがコーチとして参加したんですけど、佐々木さんは自衛隊で鶴田を教えていたから、私の弱点をチェックして、それを全部、鶴田に教えてしまうんで、対戦した時にはやりにくかったですね(苦笑)」

 両者の初対戦は、5月16日〜19日に世田谷区体育館で開催された東日本学生リーグ戦の中大VS早大のフリー90㎏以上級。1ー1の判定で引き分けに終わった。

「鶴田は力が強かったですね。特に印象に残っているのは握力。掴まれると、爪でえぐられた痕が残るんですよ。そのぐらい強かった。第1ディフェンスは手を握るわけですよね。そうやって握られると、入れないから組むしかないわけですよね」

 興味深いのは「掴まれると、爪でえぐられた痕が残るんですよ」という証言。鎌田はエドモントンの世界選手権の時、佐々木に「爪を切るな。あまり短くしちゃうと力が完全に出ない。何ミリか、残すほうがいいんだ」とアドバイスされたと言っていたが、鶴田にも同じアドバイスを送っていたのだろう。

 当時の日本のレスリング重量級はズングリムックリした体形の選手が多かっただけに、スラリとした長身も鶴田にとっては武器だったようだ。

「僕はグレコにも出ているけど、グレコは得意じゃなくて、反り投げがそんなにはできなかったから、攻める技はタックルだけ。でも鶴田は足が長いからタックルに入っても今までの選手と違うんですよ(苦笑)。僕らは肥満型だけど、鶴田はバスケのユニバーシアード候補選手から来てるから、そんなに贅肉がないし。だからタックルを取れてないですね。足が取れないし、持ち上げようとするんですけど、身長が10㎝以上違うからまだ足が着いているんです(苦笑)」

 そして磯貝が注目したのは鶴田の足腰の強さだ。

「やっぱり足腰の強さはバスケですかね。オリンピックに行く時の体力検査で、鶴田は脚力が馬並みだって言われていましたね。握力も100近くあったけど、脚力はオリンピック選手の中でピカ一じゃないかっていうのを聞いてましたね」

 バスケットボールをやっていた強みは脚力だけではないと言う。

「僕も習志野高校の時にバスケの選手を勧誘しましたけど、レスリングの動きとバスケのディフェンスの動きは足を揃えないんですね。レスリングはタックルに入られないように、バスケもどっちに振られてもいいように構えるんです。だからバスケの構えが鶴田の足腰のバランスの良さを作ったんだと思います。鶴田の強みっていうのはバスケで鍛えられた左右のバランスの取り方と、どうして強くなったのかはわからないですけど、握力ですね」

 

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『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』の登場人物
秋山準、アニマル浜口、池田実(山梨県立日川高校バスケットボール部同級生)、磯貝頼秀(ミュンヘン五輪フリースタイル100㎏以上級代表)、梅垣進(日本テレビ・全日本プロレス中継ディレクター)、鎌田誠(中央大学レスリング部主将・同期生)、川田利明、菊地毅、ケンドー・ナガサキ、小橋建太、ザ・グレート・カブキ、佐藤昭雄、ジャイアント馬場、新間寿(新日本プロレス取締役営業本部長)、スタン・ハンセン、タイガー戸口、タイガー服部、田上明、長州力、鶴田恒良(実兄)、テリー・ファンク、天龍源一郎、ドリー・ファンク・ジュニア、原章(日本テレビ・全日本プロレス中継プロデューサー)、藤波辰爾、渕正信、森岡理右(筑波大学教授)、谷津嘉章、和田京平 
※50音順。肩書は当時。

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元『週刊ゴング編集長』小佐野景浩によるベストセラー『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』(ワニブックス)を大幅に加筆し、ジャンボ鶴田の実像を描くシリーズ。小佐野氏が記事、動画、Live配信を毎月配信していく。

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