伝説のレスラー・ジャンボ鶴田が他界してからすでに25年が経った。元『週刊ゴング編集長』小佐野景浩氏がベストセラー『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』(ワニブックス)にスタン・ハンセン、藤波辰爾らの新証言を加えた28万字にも及ぶ超大作『永遠の最強王者ジャンボ鶴田 完全版』(日本ビジネスプレス)が電子書籍にて発売される。

そこで今回は『永遠の最強王者ジャンボ鶴田 完全版』の発売を記念して、鶴田最強説の対抗候補として名前が挙がる谷津の鶴田観について紹介する。

(『永遠の最強王者ジャンボ鶴田 完全版』第9章「覚醒」より一部抜粋)

全日本の選手に親近感を持っていた谷津

 ジャンボ鶴田が最初にシングルで激突したジャパン・プロレスの選手は、アニマル浜口に代わって長州の正パートナーになりつつあった谷津嘉章だ。

 鶴田が72年ミュンヘン五輪グレコ100㎏以上級代表なら、谷津は76年モントリオール五輪フリー90㎏級と80年モスクワ五輪フリー100㎏級(日本が参加ボイコットのために幻の代表)になっている。

 谷津は学年で鶴田より6年、長州より5年下のために大学時代に両者と対戦する機会はなかったが、第2章で鶴田と同期の鎌田誠(中央大学レスリング部主将=ミュンヘン五輪フリー90㎏級代表)、鶴田が勝てなかった磯貝頼秀(ミュンヘン五輪&モントリオール五輪フリー100㎏以上級代表)が「同じ時期にアマチュアで戦っていたとしたら、3人の中で一番強い」と声を揃えるレスリングの申し子だ。

 モスクワ五輪を目指していた時代には足利工大附属高校(現在の足利大学附属高校)の職員としてレスリング部で三沢、川田利明を指導していたが、そうした過去は対抗戦真っ只中の当時は伏せられていた。

「全日本のプロレスはワルツだけど、俺たちはビートの利いたロックだ!」という過激な言葉を吐いて全日本に乗り込んで来た谷津だが、他のジャパンの選手に比べると、全日本に知り合いの選手が多く、スタイル的にも順応できた。それは新日本出身のレスラーとしてはアメリカ生活が長かったからだ。

 まず野毛の道場でストロング・スタイルをみっちりと叩き込み、フロリダのカール・ゴッチに預けて仕上げるというのが新日本の伝統の育成法だが、谷津はWWF(現WWE)のパット・パターソンに預けられ、最初からアメリカン・スタイルを学んで現地でデビュー。その後、フロリダのヒロ・マツダの教えを受け、ルイジアナ、テキサス州ダラスなどを転戦した。

 83年にはアメリカで大人気だったテレビドラマ『SHOGUN(将軍)』で三船敏郎が演じていた吉井虎長にあやかったトラ・ヤツを名乗ってテキサス州ダラスを拠点にするフリッツ・フォン・エリック主宰の『ワールドクラス・レスリング』に転戦し、同年2月7日にテキサス州フォートワースでカブキに勝ってワールドクラスTV王者になった。

テキサス州ダラスでトラ・ヤツとしてファイトしていた谷津嘉章

 同年6月17日、ダラスのリユニオン・アリーナで『WCCWスターウォーズ1983』というビッグマッチが開催され、谷津はトラ・ヤツとしてマイク・ボンド、マネージャーのアーマン・ハッサンと組んでキマラとのハンディキャップマッチに出場。この大会には馬場、鶴田、天龍も参加して、馬場はキングコング・バンディとPWFヘビー級王座防衛戦、鶴田はテッド・デビアスとUNヘビー級王座防衛戦、天龍はジョニー・マンテルとシングルマッチを行っている。

「フロリダでは桜田(一男=ケンドー・ナガサキ)さん、渕(正信)さんと一緒だったし、マツダさんとルイジアナにいた時にカブキさんに誘ってもらってダラスに行って。カブキさんと組んでいたマジック・ドラゴン……ハル(薗田)ちゃんとはリング上では敵でもよく遊んだなあ。全日本の人たちはみんないい人たちなんですよ、苦労してるから。だから全日本に上がる分には、全然違和感はなかったな。馬場さんにもダラスで会ってるから、全日本に上がることになって挨拶したら〝おお、お前か〟って感じで。まさか2年も経たないうちにお世話になるとは思わなかったよね(苦笑)」(谷津)

 ダラスで馬場、鶴田、天龍と会った時には馬場の計らいで高級ホテルに鶴田とツインルームに泊めさせてもらったという。

「あの時はジャンボと朝まで喋っていたんだけど〝猪木さんとはやりたくないな。多分、猪木さんとやっても長い試合はできないと思うし、噛み合わないでしょう〟みたいなことを言っていた。あとは〝プロレスラーはひたち(相撲用語で見栄っ張りのこと)が多いけど、谷津ちゃんは自分のペースで行った方がいいよ〟とか〝ひたちにならないでちゃんと金を残しなよ。年老いたらおしまいなんだから〟って教えてもらった。結局、俺はジャンボが言っていたことを守れなかったけど、彼の言っていたことは間違いじゃなかったなと思うよ」と、谷津は思い出を語る。

谷津が感じた鶴田と天龍のプロレスの違い

85年2・21大阪城ホールで実現した鶴田vs谷津

 

 全日本の選手たちに親近感を持っていた谷津は全日本スタイルのプロレスをどう感じていたのだろうか?

「やっぱり新日本のプロレスは通じないよ。スタイルが違うって言ってしまえば、それまでなんだけど、全日本のプロレスは新日本ほど単純じゃないんですよ。全日本は組み立て方が何パターンもあるじゃないですか。面倒くせぇなとも思ったけど、全日本の試合のほうが本当のプロレスだと思ったね。新日本はパパパッて終わっちゃうから、何も考えることがないんだけど、全日本は客席の隅々までを考えてじっくりと見せるプロレスだからさ。あとはジャパンより全日本の連中の方が大きかったっていうのもあるよね。やっぱり大きいっていうのは最大の武器だよな。連中の動きはゆったりして遅く見えるんだけど、ひとつひとつの技が重いの。で、実際は動き回っている小さいほうが体力を消耗しているから」

 鶴田vs谷津が実現したのは85年2月21日、大阪城ホールにおけるジャパン主催興行の『ジャパン・プロレスvs全日本プロレス全面対抗戦』。メインが長州vs天龍(長州がリングアウト勝ち)、セミがキラー・カーンvs馬場(馬場が反則勝ち)で、鶴田vs谷津はセミ前に組まれた。当時のジャパンの選手の序列からすると、谷津と対戦する鶴田がセミ前の試合になってしまうのは仕方のないことだ。

 試合は谷津のドロップキックの奇襲という、いかにも対抗戦らしいスタートとなったが、その後はバックの取り合い、谷津がレスリングの飛行機投げからグラウンドへと移行して執拗なヘッドロック。これを鶴田が低位置からのバックドロップで返すなど、普段の対抗戦のガチャガチャした攻防ではなく、濃厚な戦いが続いた。

 次第に鶴田が身長差を利して試合を掌握。谷津の得意技スクープ・サーモン(パワースラム)をカウント2でクリアし、場外戦に転じると、場外のマットの上でダブルアーム・スープレックス、そしてエプロンに上がってきた谷津をジャンピング・ニーパットで吹っ飛ばして11分23秒、リングアウト勝ちをさらった。

 ちなみに鶴田のジャンピング・ニーパットは日本のキックボクシング黎明期のスーパースターである〝キックの鬼〟沢村忠の必殺技・真空飛び膝蹴りをヒントに、ドロップキックと並ぶ飛び技として考案したオリジナル技だという。

「ショートレンジのバックドロップに巧く受け身を取るあたりはいいセンスしているし、レスリング力もあるし、体も柔らかい。ワインと一緒で、あと2~3年寝かせたら、凄いレスラーになると思いますよ」と、鶴田は余裕のコメントだった。

 では、谷津の鶴田観はどのようなものか?

「ジャンボはプロレスが巧かったから〝こいつ、駄目だな〟と思ったら、まともに相手にしないっていうか、馬鹿にしちゃう。大げさな受け身を取ったりとか、試合を流しちゃうタイプだな。新日本の感覚で向かっていくと〝それで俺に敵うの?〟って、あからさまに嫌々付き合うような試合をするんですよ(苦笑)。本気で向き合わない。力を6分ぐらいに抑えちゃうの。実際、ジャンボのプロレス的な体力には敵わないよ。呼吸の仕方、休み方、攻め方……巧いよね。ジャンボといい試合をやるためには、彼に付いていきつつ、自分を発揮していく術がないと駄目だね。基本的にはジャンボには相手を引き出そうという部分はないから。俺としては天龍さんの方がやりやすかったな。ジャンボは、プロレスは巧かったかもしれないけど、表現力では天龍さんの方が上だったと思うよ」

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「最強説」を検証すると同時に「最強ではあるが最高ではない」理由、「普通の人でいたかった怪物」という人間性に迫る。

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