
ジャンボ鶴田の命日である5月13日、元『週刊ゴング編集長』小佐野景浩氏がベストセラー『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』(ワニブックス)にスタン・ハンセン、藤波辰爾らの新証言を加えた28万字にも及ぶ超大作『永遠の最強王者ジャンボ鶴田 完全版』(日本ビジネスプレス)が電子書籍にて発売される。
そこで今回は『永遠の最強王者ジャンボ鶴田 完全版』の発売を記念して、本書より川田利明とジャンボ鶴田の出会いと、初一騎打ちの舞台裏を特別に紹介する。
鶴田の華やかなプロレスに惹かれた川田
田上戦後、4・2豊岡市総合体育館においてダニー・クロファットをバックドロップで料理して3連勝を飾った鶴田は、4・6大阪府立体育館で川田との初一騎打ちを迎えた。
川田にとって鶴田はプロレスのイメージを変えてくれたプロレスラーだった。
小学生の頃、父方の祖父母の家に家族で同居していた川田はプロレスが嫌いだったという。プロレス好きの祖父は土曜の夜には全日本プロレス中継を観ていたが、川田は裏番組の『8時だョ!全員集合』を観たかったからだ。
その後、父が亡くなり、祖父母の家を出て、母と妹との3人暮らしになった川田は中学2年生の時、それまで嫌いだったプロレスを何気なしに観た。それは77年8月25日に田園コロシアムで行われた鶴田vsミル・マスカラスだった。
「おじいちゃんと小さい頃に観ていたプロレスのイメージとは全然違って凄く爽やかに感じて〝あれっ、プロレスってこんなのだっけ?〟って。それですぐにプロレスにハマったわけじゃないんだけどね。その年の暮れのファンクスvsアブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シークでハマっちゃった。今思えば一番嫌いな試合だよね(笑)。でも、要するにコテコテのほうが人を惹きつけやすいのかなっていうのは思うよね」(川田)
それから毎週、全日本中継を観るようになり、新日本の『ワールド・プロレスリング』も欠かさず観るようになって、遂には中学3年生の78年秋に新日本の入門テストを受けた。なぜ新日本だったかというと、全日本にも履歴書を送ったが返事が来なかったからだ。

東京・世田谷区野毛の新日本道場でスクワット500回、腕立て伏せ30回1セット×10セット、柔軟、首の運動、ブリッジなど基礎体力を難なくパスした川田は、現役の若手レスラーとのスパーリングに勝ってしまったから大変なことになった。続く藤原喜明とのスパーリングで容赦なくボコボコにされてしまったのだ。
藤原に血だらけにされてしまったが、テストは合格。事務所での山本小鉄との面接にもパスして数日後、新日本から「卒業したら来るように」という連絡が入った。
この時点で川田が新日本に入っていたら、当時の新日本のレスラーの最年少記録。闘魂三銃士よりも5年も先輩になり、新日本の歴史……いや、日本プロレス界の歴史も大きく変わっていたかもしれない。
しかし「高校だけは出てほしい」という母親、先生の説得でレスリングの強い足利工業大学附属高校に進学して、三沢と同じレスリング部に入部。3年生の時の81年6月に関東大会、8月に全国高校総体、10月の滋賀国体のフリースタイル75㎏級でいずれも優勝。滋賀国体では1学年下の広島電機大学附属高等学校の山田恵一……のちの獣神サンダー・ライガーとも対戦して勝っている。
そして卒業前に1年早く全日本に入門してすでにデビューしていた三沢に「自分もプロレスラーになりたいんですけど」と相談。82年2月4日の東京体育館で馬場の面接を受けて「高校を卒業したら来なさい」と入門の許可をもらったが、実は馬場に会う前にプロレスのイメージを変えてくれた鶴田に会っていた。
「まだ東京体育館で馬場さんに会うよりも前に、三沢さんに〝後楽園ホールに来い〟って言われて、後楽園ホールの裏の階段のところに三沢さんが鶴田さんを連れてきてくれて1回挨拶したの。テレビで観ているイメージとそんなに変わらず、爽やかで軽いノリで〝頑張ってね!〟みたいな感じだったね」
当時、三沢は鶴田の付け人。川田もレスリング出身ということで鶴田に可愛がられたと思うが、そのあたりはどうだったのだろうか?
「同じアマレス出身っていうけど、バスケットボールをやってた人間が、たかが何か月かアマレスやったらオリンピックに行っちゃったなんて、普通じゃ考えられないことだよ。自分がやっていただけに、なおさら考えられないよね。じゃあ、それまで頑張っていた人はどうなのって感じじゃん(苦笑)。あの人は、何に関してもずば抜けてたからね。三沢さんが付け人をやってたんで、たまに地方巡業で時間が空いた時に三沢さんと一緒に鶴田さんのタニマチにご馳走になってたよ。でも、合宿所ではしごかれたこともありますよ。当時の全日本は最後にスパーリング、スパーリングで、相撲で言えば入ってきた新弟子が先輩たちに回されて可愛がられるようなものだよ。鶴田さんに〝動け! 動け!〟って引きずり回されて。何人もの先輩とやった後にそれだからね(苦笑)

頬骨陥没骨折の過去を経て初一騎打ち!
川田のプロレスラーとしてのターニング・ポイントにも鶴田の存在があった。
85年11月から86年12月までの1年1か月、テキサス州サンアントニオ、カナダのカルガリーとモントリオールで武者修行した川田だが、ランクは上がることなく、相変わらずの前座戦線で悶々とした日々を送っていた。そんな時に勃発したのが天龍革命だ。
87年8月21日、仙台・宮城県スポーツセンターでの『サマー・アクション・シリーズ2』開幕戦のメインイベントは鶴田&カブキvs天龍&阿修羅・原の龍原砲だったが、ゴング前にカブキが天龍の顔面に毒霧を噴射したから騒然となった。すると正規軍のセコンドにいた川田が突如としてリングに駆け込んで鶴田に殴りかかったのである。
これが川田の自分の殻を破る意思表示だった。
そこにアメリカ遠征から帰国した天龍の元付け人の冬木が駆け込んできて、同じく天龍の加勢をするかと思いきや、天龍に殴り掛かり、試合は馬場の判断で鶴田&カブキ&冬木vs天龍&原&川田の6人タッグに変更に。
川田は怒りの鶴田にバックドロップで叩きつけられて負けてしまったものの、カブキに側転エルボーをぶち込み、冬木をジャーマン・スープレックスで投げ、鶴田にはラリアットからフライング・ニールキックを爆発させて充実感を味わうことができた。
試合後は天龍に「詫びを入れて、今日は向こう(正規軍)に戻れ」と諭され、正規軍の控室に「今日はありがとうございました……」と戻ったが「何しに来た⁉」と荷物を放り出され、鶴田とカブキに袋叩きにされて再び龍原砲の控室へ。翌日から川田は天龍、原と行動を共にするようになった。
一度は正規軍に戻るように言った天龍だが、実は「アマレスのバックボーンがあって、いいものを持っているのに、何でスポットライトが当たらないんだろう」と川田のことを以前から買っていた。それだけに帰る場所を失った川田を拒絶する理由はなかった。
「海外修行って、それまでは帰ってきたら上のほうで試合ができることになってたじゃない。それが帰ってきてもずっと第1試合なんてあり得ないと思ってさ。ここで何か仕掛けなければ、俺はこのまま終わっちゃうんだろうなと思って〝これは一番目立つところだ!〟って鶴田さんに突っ掛かっていったの」(川田)
だが、当時の川田にとって鶴田と戦うのは荷が重かったようだ。特に88年11月に原が解雇されてからは天龍の正パートナーとして連日タッグ、6人タッグで鶴田と当たった。
「あの頃でも俺は110㎏ぐらいあったんだけど、あの人は大き過ぎたよ。それに一流外国人だって手のひらで遊んでいたようなもんだから、下手したら、笑いながら試合してんじゃないかっていうぐらい余裕があったよね。何か、ホントにね、オモチャにされているような感じがしたね。普通は持久力がないとか、瞬発力がないとか、体が小さいとか、どこか欠けているものなんだけど、あの人は欠けてるものがなかったもんね。今でも憶えてるのは、地方でジャンピング・ニーを食らって左の頬骨が陥没骨折しちゃったこと。鼻をかんだら、ほっぺたがプーッって膨れちゃって。骨が折れて陥没してるから、空気が頬に全部入っちゃったんだよ。俺なんかにやるジャンピング・ニーは凄い角度で来るからさ。昔は膝の横から当ててたのに、膝頭を突き立てて来たからね」(川田)
この『チャンピオン・カーニバル』公式戦での初一騎打ちの前までには、川田にとってはこれだけの長きにわたる物語があったのだ。
いざ、試合。鶴田は超世代軍のナンバー2に成長した川田に強烈なキチンシンク、ボディへのエルボーを見舞い、巨体を浴びせてのSTFとシビアな攻めを見せた。

川田はローキックの連発で何とか鶴田にストップをかけ、執拗なヘッドロックとスリーパーで封じ込めにかかるが、鶴田はヘッドロックをかけられたまま川田を宙高くリフトすると、そのまま前方にぶん投げる豪技。
そして再三の顔面ステップキックにイラッときて、強烈な張り手、エルボーバットからロープに振ってかつて左頬を陥没骨折させたジャンピング・ニーを叩き込んで「オーッ!」の雄叫び。最後はパワーボム、バックドロップの大技2連発からフォールにいかずに再び「オーッ!」の雄叫びを上げ、駄目押しのバックドロップ。17分13秒で川田を沈めた。
「こんなに顔面を蹴ってきやがって。ピンフォールよりKOのほうがあいつには似合うと思って2発目のバッドロップを入れたよ。でも川田はいい根性してるね。ああいうファイトは三沢より上かもしれないね」と、鶴田は怒っているようで、実は余裕だった。
鶴田との初一騎打ちを川田はこう振り返る。
「いつも余裕こいてるから、怒らせることをやろうと思ったよ。怒らせたら面白いじゃん。まあ、怒らせたら止まらなくなるから大変なんだけどね(苦笑)。でも、あの人は怒らないと本当のジャンボ鶴田を出さないから、とにかく顔面を蹴り上げたんだけどさ。しつこくヘッドロックやスリーパーをやったのは、ああいう技は身長差関係ないから。でも結局は、あれだけ余裕こいてやっている人を怒らせるのは。やっぱり難しかったよ」
スタン・ハンセン、藤波辰爾らの新証言をもとにベストセラーを大幅加筆した28万字の超大作『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田 完全版』が5月13日より発売開始!!また同日に川田利明さんをお招きして「ジャンボ鶴田を語る」Live配信を開催!
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【新証言】藤波辰爾、スタン・ハンセン、田上明、秋山準...ベストセラーを大幅加筆した28万字の超大作!
元『週刊ゴング』編集長・小佐野景浩によるベストセラー『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』(ワニブックス)を大幅に加筆、藤波辰爾、スタン・ハンセン、田上明、秋山準の新証言をもとに、改めてジャンボ鶴田の実像を描く28万字の超大作!
「最強説」を検証すると同時に「最強ではあるが最高ではない」理由、「普通の人でいたかった怪物」という人間性に迫る。
【購入者特典】
2025年5月13日に開催される著者・小佐野景浩さんと川田利明さんの対談Live配信及びアーカイブ動画をご視聴いただけます。
※本書は5月13日からご購読いただけますが、商品の購入は5月2日より開始しております。


電子書籍発売記念!川田利明とジャンボ鶴田を語る
名レスラー・ジャンボ鶴田が亡くなってから今年で25年。
元『週刊ゴング』編集長・小佐野景浩氏が、自身のベストセラー『永遠の最強王者ジャンボ鶴田』(ワニブックス)に、新たな取材を基にした大幅加筆した電子書籍『永遠の最強王者ジャンボ鶴田 完全版』の発売が決定!
ベストセラーの完全版にふさわしく今回は28万字を超える超大作。
今回は、この『永遠の最強王者ジャンボ鶴田 完全版』の発売を記念して、シンクロナスにて鶴田の命日である5月13日に刊行発売記念Liveを開催。
編集者とプロレスラーという立場で取材を続ける中で感じた人物像や、長年鶴田の関係者にインタビューしてわかった意外な素顔を語っていただきます。
加えてスペシャルゲストとして川田利明さんにご出演いただき、間近で体感したジャンボ鶴田の強さと人柄をお話しいただきます。
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